だって、認知症になったたからって生物としての欲望はたぶんなくならないから、認知症になった自分も、認知症そのものが原因で「死にたい」とはならないと思うんだよね。
自分の祖母は脳血管性の認知症で、家族を認識しているのかどうかもよくわからない状態になって、意味のある言葉はほとんど話さなくなって、
でもなぜか、五十音表をみせながら「あ、い、う」とか周りが言うと、後について「あ、い、う」と続けたりして、赤ん坊みたいになってしまったのだけれど、
なぜかある日、とくに発病以前に焼き芋が好きなんて話は誰も知らなかったのに、「やきいも!」「やきいも!」と叫びだして、とりあえず焼き芋をあげたら、
なんだか、正直、見ていられないような下品な食べ方でむしゃむしゃたべて
当時の幼い自分にとっては、ばーちゃんが、あんなふうになっちまったのが、すごくつらかったんだけれど、
あれはあれで、ばーちゃんは必死に生きていたんだと思う。
認知症になってみっともない姿をさらしたくないとか、周りに迷惑かけたくないからっていう理由は、「美しい」とは思うけれど、
じゃあ、病気で周りに迷惑かけるようになった人間は死ぬべきなのかって話になると、なんか恐ろしいし。
「家族や周りに負担がかかる」というのは。直接「認知症=死にたい」ということじゃなくて、
若年性アルツハイマーの初期なんだと、だんだん自分の認知症が進んでいくことに、すごい恐怖や不安を覚えたりするっているけれど、だからってダイレクトに「死にたい」とはならない気がするしなあ。
もう自分で栄養を取る力すらなくなっているのに、胃に穴をあけて栄養を送り込んでまで寝たきりの自分を延命させてほしいとは思わないけれど、
認知症はね、 自分が認知症であると自覚できている間がつらいのよ。 自分が認知症であることを自覚できない程度まで症状が進行したら、 もうそれは動物として生きているようなも...