まあ燃やす前に吊るされた短冊はきっちり全部読みましたけどね!ウケケケケ。
今年もまた相変わらず
「温い家庭が築けますように」
などと腹筋と想像力を鍛えてくれる短冊も沢山あったんだが(ヌクいならいいがヌルいだと)、
今年は少し別の事が気になった。
普通に竹を見上げただけでも、
“世界平和”“世界平和”“世界平和”“世界平和”“世界平和”
なんか、やたらとアーチャーがいる。
だいたい「世界平和」なんて単語が七夕の短冊なんぞで出てくるのは、願いを書こうと思ったんだけど自己の願いを特に思いつかなかった奴が書くせい、という事情はもう解っている。
なので、去年までも皆無ではなかったが、あくまでも少数派だった。
だが今年は多い。やたら多い。目立つくらい多い。
筆跡から見るに年齢層に特に偏りもなく、老若男女が書いている様子。ただ老人は若干少ないか。
何じゃこりゃ、と素直にキモく思えたためその原因について考えてみたんだが、
去年と今年とで参拝者を取り囲む状況が大きく変わったとは思えない。
強いて変わったとするならば、どうにか変化を見出すならば、それは世相の方だろう、とは思った。
ISの台頭だの日本人人質の惨殺だのテロだの特定アジア情勢だの、まあ確かに物騒な事もこの頃多かった。
でもそれは別に、去年の七夕以降に限った話というわけでもないように感じる。
一昨年も物騒だったし、その前の年も十分に物騒だった。
エントロピーは着実に増大し、終末時計の針は刻々と進み、モヒカンがヒャッハーする世紀末の訪れも近いね!と感じさせるに足るだけのステキな世界だったように思う。おお末世こわいこわい。
じゃあ何で一体、今年の七夕に限って大勢のアーチャーが揃って短冊に世界平和とかふざけた世迷言を書き始めたんだろうか…と考えたのだが、
まあ当然の事ながら、誰だって自分がかわいいし、見るのは身近で目の前のものばかりだ。
だから、私幣(個人的な願いや祈り)ほど短冊に書かれやすいし、公益や公徳を望む願いほど書かれにくい。当たり前のことだ。
では、その当たり前が覆されているのは何故なのかと言えば…
今年あったなにごとかから、乱暴な例えをするならば“第三次世界大戦の端緒”のような、「取り返しのつかなくなりそうなギリギリの状況」みたいなものを皆が何となく感じ取り、それが漠然とした不安となって現れたからこそ、普段あまり書かれない“世界平和”なんて短冊が大量発生したのではないか、と感じる。