「技術的負債!」と声を荒らげる”意識の高い”ひとほど技術的負債を残してしまう、というジレンマがあるように思う。
Twitter でよく見る「クソコードのメンテつらい。技術的負債だ」という類の投稿。
本当にそのコードがよく書かれていなかったのかもしれない。
だけれども、その投稿をしたひとが「他人のソースコードを理解しようとすることに慣れていなかった」のだとしたら。
こんなに不幸なことはないと思う。
そのひとは自分に最適化されたコードを書き続け、そこから外れたコード、自分の理解の及ばないコードを「クソコード」と形容し、生きてゆくのだろう。
そのひとのコードは会社で「技術的負債」と呼ばれているかもしれない。
Twitter やはてブや Rebuild.fm から最先端の技術やコンセプトの知識を仕入れてきて、会社のプロジェクトで試すひと。
そういうひとには、次のような基本的な質問をするようにしている。
こういう質問に対して、ウェブ上で誰かの言っている一般的な利点をただ述べたり、うまく答えられずに不機嫌になったりするひとは危険だ。
自分の頭で考えることができていない。
「Twitter でみながその技術の話をしていて、ただ楽しそうに見えたから」、というところなのだと思う。
技術やコンセプトが生まれた背景には「必要性」みたいなものがあるはずで、それを理解し、説明できるようにした上で、自分の今いる状況に照らしあわせ、判断しなくちゃいけない。
もしもその技術やコンセプトとプロジェクトに齟齬があったのなら。近い未来に、それは「技術的負債」と呼ばれることになるだろう。
「技術的負債!」と声を荒らげる”意識の高い”ひと。若くて、ピュアなひと。
思い当たる人いるわ 個人的な学問・研究としてのプログラムコードと会社組織の製品・サービスとしてのプログラムコードに求められるものは同じじゃない 後者に考えが行き届かない、...