誰かに嫉妬した時に、相手の不幸を望むのは不毛だ、自分が成功して見返した方がいいでしょう、ってのが恋愛や作品評価や色々な場面でよく言われる。
成功した奴の足を引っ張ろうとする日本の国民性がどうのこうの、なんかに話を繋げられたりもする。
これは大体正論だけど、ただあんまり建前すぎるんじゃないかなあって気がする。
人は凄く痛い時、その痛さが一刻も早くなくなることを望む。
傷が綺麗に治るとか全体的な健康状態をよくするとかを考えている余裕はない。
欲しいのは即効性の痛み止めや麻酔だ。
この場合、痛み止めに相当するのは相手の不幸と没落じゃないだろうか。
自分が成功して相手を見返せるようになるなんて、長い道のりだ。時間も労力も必要だ。
嫉妬で痛くて痛くて仕方ない時に、そんな気の長いことを考えられる人がどれだけいるだろう?
その反面、誰かの評価や人生がぶっ壊れるのはまさに一瞬で起こりうる。
今すぐにこの嫉妬が消え去ってほしいと願う人は、相手の足を引っ張りたくなるのではないだろうか。
また、自分が成功して見返すといっても、それで悪感情が消えるとは限らない。
たとえば、嫌いな奴が年収一千万で自分が年収二百万なのが悔しい。
必死に苦労して自分は年収二千万になって相手を見返した、これでスッキリするか。
私はしないと思う。だって、未だに相手はかなり裕福な暮らしをしてるじゃん。
これは嫉妬が恨みに転じた場合かもしれないけれど、嫉妬も恨みも心を苛む「痛み」には変わりないし、その転換は結構な確率で起こる。
人間は相手より上位に立つだけじゃスッキリしない、相手に苦しかった時の自分と同じかそれ以上の苦痛を味わわせなければ解放されない。
逆に、相手に苦しみを味わわせられるなら、必ずしも上位に立たずとも「痛み」から解放されることがある。
だから、相手より上位に立つことは直接嫉妬という痛みに作用する痛み止めではなく、痛みが落ち着いた後に楽しく生きていく体質管理のようなものだとたとえた。
更に加えて言えば、誰かが没落することと誰かが成功を掴むことでは、前者の方がずっとイメージしやすいというのもあるかもしれない。
時代的なものかもしれないし地域柄的なものかもしれないけど、この「できそうな感じ」の差は存在すると思う。
とりわけ嫉妬深いタイプの人は、自分が成功するイメージを持ちづらいように見える。
以上のようなことから、嫉妬に苦しむ人は、早く、直接的に、より現実味をもって嫉妬を消し去ってくれるものとして、相手の没落を願い、時には実際に足を引っ張る行動に出るのではないかと考えた。
っていうかまあ、他人事のように書いてもこれ全部私のことなんだけど。
足を引っ張るのはやめなよと諭す人は、こういう嫉妬側の事情も勘案した上で説得しないと、いまいち通じないんじゃないかしらん。