自ら命を絶った青年のご親族、ならびに御友人、学校関係者のみなさまには謹んでお悔やみ申し上げます。
体罰の是非をめぐる話題が盛りあがっています。しかしそのような議論/考察はあまりにも短絡的で、彼の命を弔うには足らないと感じます。「なにかを奪われた」「犯人は誰だ」という、魔女狩りをしているに過ぎないのではないでしょうか。
この類の論法と変わらない。だれかを悪者にしなきゃいけないの?
話を戻します。命を絶った青年は、きっと有望な将来があったものと想像します。もちろん、彼は知人でもなんでもありません。ただ、「たかが」体罰で思い詰めるほどに彼は部活動に打ち込んでいた、ただそれだけの伝聞から勝手な想像をしているだけです。そのように、なにかにのめり込んで打ち込むことのできる人間ってそれだけでも見所があるのです。ぜひ部下に欲しい…なんて思うのは僕だけではないでしょう。
見所があったから「体を使って教えた」。具体的な状況は知らないから迂闊なことは言えませんが、そんな教え方もあるのではないか、って思います。僕がこの事案でなにより残念に思うのは、彼が「他の生きる道を選ぶ」という選択肢にたどり着けなかったことです。
「正しい教え方」なんてものができる大人なんて、ひとりもいません。だから、先生や学校を責めても永久に解決はしない。しかし彼に、逃げ場を失わせ、思い詰めさせたのはわたしたち大人の明らかな過ちです。彼にバスケットボール以外の他の道、将来、可能性を提示してあげられなかった。結果わたしたちは彼を失い、社会は損失を被った。
ひとりずつに適切な「正しい教え方」なんて、実現できっこない。でも困難や試練、もしくは教育方法の合わない教師なんてのに遭遇した時、立ち向かうだけがすべてではないことを提示してあげることはそんなに難しくないはず。先生も親御さんも責任感故に彼を厳しく育てられたんだと思うけど、そんな提示ができてなかった点においてはご両名を責めたい。
藪から棒に魔女を仕立て上げても、教訓は得られない。正しい教育なんて、そもそもないのだから。みな、期待してしまうから厳しく育てる。愛故に、視野狭窄に陥る。それが僕たち、大人の幼いところなのだ。そしてこの幼さに、たいへんな犠牲を伴なってわたしたちは気付く。