状況に浸っている人にはどれだけ説明しても「違和感を抱いているということが伝わらない」というのがおもしろいですね。
ただケチを付けているという風に受け取られる。
まぁ、社会の価値観が大きく変わる時にはいつも起こっていることなので驚きはしませんが。
ユーミンが流行って「恋愛至上主義」が横行した時代と大差ないですし
しかし、大飯原発にしても消費税にしても何処から観ているかによって得られる最適解は変わってきて、結局そのバランスを何処でとれるかが社会の理性というものだと思うのですが
この「閉じた世界の中、傍観者で居続けることにしか安寧はない」かのような世界観をなんの疑いもなく受け取る人間の多さには
「社会がバランスをとるシステム自体を喪ってきているのかな」とも感じます。
日本は右へ傾こうが左へ傾こうが、その真ん中にほとんどの人が居て、自分の生活から冷徹に世界を眺めてきた。しかし、主に東京に暮らすような立ち位置を生活から共有できない個の大集団は
やはり思考の前提も不安定で、乗っかってしまいやすい。前提の向こう側を思考できない状況に陥りやすい。
そのはてに、自分がどのような場所に立つよう誘導されているのかにも気付けない。
自分で選んだように思っているけれど、思考する前に与えられる情報の中から自分が取り巻く環境が最善だというものの中にいるだけで結局自分では選んでいない。自分が居ない。
それは影を喪って永遠の中に取り残されたピーターパンのようなもので、いつかその永遠という夢は忘れ去られ、取り残され、自分の影に殺される。
クリエイターも、消費者も孤独で、その孤独の連鎖の向こうに「文化」と呼べるようなものが残り、続くものとしてあるのか。よくわからない。誰か、何処かの自分ではない「個人」の想いを消費しているだけに感じる。
もう少し短くキャッチーになんない?示唆に富んだいいこと言ってる感じがするので。
お里が知れるというか…。
「みんな変なら変ではない」って感じか。 みんな同じ病気ならそれが病気だと気づかない、「ウィルス進化説」の文化人類版みたいな。 結婚した夫婦みてて、凸凹具合に「ああ、お互い...