むしろ物理的な考え方をひているのは3x5派だろうと。問題文そのものがうっかり比率を用いた出題になってしまっているのに、1個1個という物の個数的な感覚に束縛されて、自分が暗黙のうちに比率を個数に置き換えてしまっていることに気がついていない。
素直に喜びたいのだが、とってもモヤモヤするのだ。
不幸になれ、とまでは思わないけど、幸せになってほしくない、そんな漠然とした気持ち。
我ながら、人として最低だと思う。が、モヤモヤしてしまっているのは紛れもない事実。
いたたまれないので、この場を借りてそっと告白させていただきたい。
友人、とするからいけないのかもしれない。
中学時代から大学卒業まで、濃密に付き合っていた相手、というべきか。
同性なのだが、あまりに好きすぎて、多感でデタラメな中学時代などはそれを恋愛感情とまで自分で誤解してしまったくらいだ。
大学卒業間際、あることをきっかけに喧嘩になり、それっきり、会わなくなってしまった。
そもそも、友達、だったのかどうか。
絵がうまいし小説もうまい、と当時の私は思っていた。事実、中学生としては上手だったと思う。
「見せてほしい」とお願いすると、同じものを同じ枚数かいてもってこい、と言う。
だから私は小説なんか書き始めたのだし、当時は下手なイラストも必死で描いた。ほんとうに下手だった。
友人複数と交換でリレー小説をやったりもした。いつも私がキャラを殺すと怒られた。
楽しかったのは間違いない。けれど私は、メンバーの中では、いじられキャラを微妙に超越したいじめられキャラだった。
ボケと突っ込み、の体裁をとりながら、私が何か言えばいきなり手が飛んでくる。
はじめのうちはちょっと突く程度だったものがエスカレート。
こちらが笑っているうちはいじめにならないから、と、私も痛いのを我慢していたけど、
ついに、脳味噌ずれるのが分かるほどの平手打ちをもらったときは、意志に関係なく涙が出てしまった。
さすがにどうかと、ヤツに手紙を書いて渡した。
なんて返ってきたと思う?
「自分には、対等な付き合い方というのが分からない。見下すか、敬うかしかできない」だと。
要は、ペルソナが強すぎるのだ。
「自分のキャラ」みたいなものから一切逸脱できず、ただそれを演じることに徹している。
そこを理解してくれと言うのだ。
事実、二人でいるときは手をあげることはない。
それでもやっぱり、好きだったのかねぇ。
強くたたきすぎるのはナシ、みたいな密約のもと、謝られるわけでもなく同じ関係は続き。
オタク仲間、というのが少なかったからかもしれない。
別の高校に行っても、長電話したり遊びに行ったり来たり。
でも、この頃になると、学校が違うから明確な学力の差が見えにくくなってくる。
視野も広がるし、友人も増える。
私も小説を書くのが好きになって、素人ながら作品と呼べそうなものも作れるようになってきた。
そうなってくると、力関係は変化し始める。
コテコテのドオタクでいるより、好きなものを適度に取り入れたい私と、
なりふり構わぬ服装や態度を、こちらがやんわり諭すような場面も出てきた。
そして受験。
お互い一浪し、ヤツは有名大学の文学部二部、私は芸術系学部の文章創作コース。
こっちは大学の課題で小説を課され、プロの小説家に添削を受けているんだから上達は早い。
ヤツの書いた、あいかわらず中学クオリティの作品の粗もよく分かるようになった。
でも、こき下ろすようなことはしなかった。
こっちはプロを目指そうとしているのであって、趣味で書き続けている人の楽しみを奪ってはいけない、と。
この頃になると、家族に次いで親しい大親友と言っていいくらいには気心を許していたと思う。
・・・少なくとも、こちらからは。
あくまで「自分のキャラ」のなかでしか行動しないヤツに、私はだんだんいらだってきていた。
とにかく、成長がない。他者から学ぼうとしない。影響されない。
だから、迫ったのだ。本音で付き合え、と。
ヤツのペルソナをすべて論破して、丸裸にしてやった。
そうやって逃げるのは怖いからだろう? ほらまた自己弁護に走った、
それは本心じゃないだろう、なぜそう言いきれる?
思えば私も若かったし、性急だったと思う。
自分はこんなにお前のことを知っているぞ、とひけらかしたかっただけなのかもしれない。
10年付き合っていてはじめて、ヤツは涙をみせた。
初めて本音に触れた、と思った。漠然と、勝ったと思った。
そんな風に思う時点で、私も薄っぺらだったわけだ。
それっきり、会っていない。
ただ、私はそのとき予言した。
「そんな風に自分の殻に閉じこもった付き合い方をしていると、幸せになんかなれないぜ」と。
それから、約10年。ヤツをネット上で見つけたのは、ほんの数年前だ。
精神安定剤をオーバードーズしていることが自慢げに書かれていた。
複雑な気持ちになった。不幸自慢は気持ちのいいものではない。
でもどこかで、ほら言ったとおりだ、という思いもあった。
一方私は、小説家とはいかないまでもライターとして仕事で文章を書くようになっていた。
信頼も得ていたし、役職をもらって後輩を育てるまでになっていた。
大した成功ではないが、ヤツと比べてしまえば雲泥の差。
HPに設置された掲示板に声をかけるか迷ったが、やめておくことにした。
何を書いても、自慢になってしまう気がした。
それからさらに数年。
一定の自己実現欲も満たせたし、第二の人生といった感覚の引退。悔いはひとつもない。
ふと、ヤツを思い出した。
正直、自殺しているかも、とさえ思った。なぜか、それだけはやめてほしいと思った。
安否確認のつもりで昔見つけたHPを開くと、ブログが変わっていて、
ヤツが何を思い、どう変化していったかは知る由もない。
真に心を開ける相手を見つけたのか、
心を開かないことを許してくれる相手を見つけたのか、それすらわからない。
ただ、相変わらず昔の小説の続きを掲載し続けているヤツと、
今の私が社会的に同じところにいるということが、妙にモヤっとするのだ。
もしかすると、私こそがヤツに対して、一定の強い思いを抱えたままなのかもしれない。
数学と物理の違いもわかってないんだよなあ…。どっちも中途半端に理解した気になってて、頭の中でごちゃまぜにして独自の理論を作り上げちゃってるから、元増田みたいな意味不明な理屈になる。
今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃイカんでしょ。
「今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃ」いけない根拠を主張しないといけないんじゃなイカ?
>3×5と5×3が同じ意味なわけがない
って言うけど、
数式ってのは抽象化されたものなんだから、意味をどう考えるかは文脈に囚われるし、むしろその文脈のほうを明確に示すのが数式自体よりも重要になってくるだろ。
数式だけ取り上げるだけなら、いくら議論しても「3×5=5×3」だよ。
つっかプロの漫画家さんは下手に見える人でもかなりうまいんだけど、
少なくとも下手に見えないというだけで相当うまいんだよ。
「1皿につきりんご3個」と表現した時点でそれは3個/皿という比率しか現していない。3個+3個+3個+3個+3個=15個と言いたいらしいが、前処理を済ませない限りその3につけるべき単位は個ではなく個/皿でしかない。3(個/皿)+3(個/皿)+…、おいおい、比率って足せるのかよ?
wikipediaとかで調べてきたのか、論旨と関係ないところでむりやり環とか何とか言ってるけど、この人は文系だろうなあ。
ここまできて、根拠が「それが普通」だからてお前・・・。
今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃイカんでしょ。
お前、こんなバカな主張するやついねぇよ。
なぜタコじゃだめだったのかという疑問は思い浮かぶ
「イカ娘の作者は絵は上手いけど話が…」といった感想をたまに見る、そのたびに「ただの萌え絵に見えるけど何が上手いんだろう?」と不思議になる。
例えば山田章博みたいな、あの辺の漫画家ならそう言われても、まぁ確かに絵が売りになるくらい上手いねって思うんだけど、イカ娘の絵ってどういう上手さなの?他の萌え絵からどこが飛びぬけてるの?
13個年下の彼からアタックされて、付き合うことになった。
「君のことが大好きだ」
「かわいい。今まであった人の中で一番好きだ」
「愛してる。歳を取っても、それはずっと変わらないよ。」
「僕に甘えて良いよ。だって君のことが大好きだから。」
「これから僕と一生一緒に居るんだからね。」
「君のことは大好きだけど、もう付き合っていけない。結婚とか重すぎる」
書きだしてみると馬鹿馬鹿しい。けれど私なりに一応、真剣だったよ。
さあ煽って下さい。
追記・プギャーありがとうございます。落ち込んでいるので嬉しいです。
ちなみにセックスですが、彼インポだったので楽しくありませんでした。
性格も身体も合わなかったけど、それでも辛いんだよね。
馬鹿みたい。
彼自身周りに人に、長く付き合ってから振られて結婚が手遅れになるよりは今別れた方がよいと言っていたらしい。
ま、そうなんですけどね。
そうなんですけどね…(´;ω;`)
追記その2
確かに一ヶ月サービスして貰ったと割り切るべきでしょうね。
よい気分ではありました。
確かに正確には可換。
しかし特殊な事例として、初等教育の場ではあえて正確さを代償に教えやすさを優先する事がある。
結局のところ、この一連の議論は数式「3×5≠5×3」という大きな釣り針によって、
夏休みが明けてから、急にサボるようになりました。
サークルもバイトもしてないし、大学の友達は片手で足りる、往復4時間の通学でヘトヘトになってしまうこの頃。
あと一週間足らずで20になるんですよ。
20になった瞬間に何が変わるわけでもないんだろうけど、20というわかりやすいひとつの区切りを迎えるにあたって、
今までの自分のこととか、今朝の目覚めた瞬間に学歴コンプが頭にあった自分のこととか、さっき中間テストと知らずに教室に入った自分のこととか
そんなものを顧みながら、内から沸いてくる怒りやら後悔やら嫉妬やら、不安やら、寂しさやら、とウジウジ戦いながらも思考は同じところをループし続ける。
変わることなく怠惰に現状に甘んじ続けた、ここ1年半くらい、ネットで他人の人生を観察しながら、自分の人生を放り投げたまま拾いに行く気にならない。腰が重い。
今度こそ。
と思ったことは何度あったか
5つの皿にりんごが3つあるを、(1+1+1)x5と表現するのは無理があるんじゃないか?
3つと書いてあるのに1つが3つあると考えるのは考え方がそもそも間違ってる。
しかもコンパイルしてねぇからとけねぇぞ。
(※ 追記しました。)
なわけありません。元ネタは
http://alfalfalfa.com/archives/1374811.html
で、
http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/
とかで議論されている。この問題は
の話が混じりあい、おかしな事になっている。
だがそんな中で、「これは数学では全く同じものだから、くだらない、国語の問題だ」とか言って思考放棄してる連中が多すぎて反吐が出そう。おまえら、どうやって掛け算計算しているんだ?3×5=5×3は、定理より導かれる帰結なんであって3×5と5×3が同じ意味なわけがない。
ここでは、「高等教育を習った人向け」に、数学的に5×3と3×5を区別するべきことを説明する。
suzusuke氏も算数科学習指導要領解説から引用していることであるが、数式とは思考過程を表現する言葉(ツール)である。
Aさんがりんごを1個、Bさんがりんごを3個、Cさんがりんごを2個持っていました。合計は?
これに対して、
4+2=6、よって6個
と書いたら、だれにも伝わらない。4って数字がどっから来たのかわからないからだ。
いくら「1+3=4なのは数学的に等価だ!」といっても、それはお前の頭の中であって別の話である。
6であるということを証明するには合計を計算するにはすべてを足せばOKという共通認識を持った上で
1+3+2=4+2=6
と示さなければいけないのである。無論、バックグラウンドで了解が取れるなら
1+3+2=6
といきなり書くことは何ら問題がない。大事なのは「1+3+2」と「1+3+2=6」は言葉として意味が違う、ということだ。どう考えたか、をできるだけハッキリした形で表現できるツールが、数式なのである。
お前らは「3×5も5×3も同じじゃないか」とか言うかもしれない。じゃあ聞きたい、「その同じと言ってる3×5とはなんなのか」を。まさか九九を信用して「3×5=15」のことだ、とは言わないだろう。
ここで、「定義」の必要性が出てくるのだ。掛け算はあまりに普遍的すぎて、そこを忘れやすい。そこで我々は×という記号を
3×5 = 3+3+3+3+3
のような略記である、と「定義」するのである。
ここで、お前らは英語圏では
3×5 = 5+5+5
と定義しているぞ、バカが。と言うかもしれない。そのとおりである。それで一向にかまわない。だが大事なのは「数学は可能な限り簡潔な定義でなくてはならない」ということだ。つまり、
3×5 = 3+3+3+3+3 または 3×5 = 5+5+5
なんて自由度を与える定義はあってはならないのだ。そもそも、計算してみないとほんとに等しいかわからない3+3+3+3+3 と 5+5+5 のどっちでもいいよ、ていうのはwell-definedにならない危険性さえある。とにかく、定義は一つで済むなら一つにするべきなのである。
あくまで定義の仕方が2通りある、ということだ。定義の仕方自体に絶対性はない。そして、日本では前者のほうがしっくりくるから、とりあえず前者で定義している。定義なんだから、ローカルルールも小学生限定もない。そこを履き違えてはいけない。
ちなみにそんなこと数学で習ったことない、という奴もいるだろうが、当たり前である。高等数学では上記のような略記であるとは定義しない。それは0とか負の数とか、小数とかが入ってくると上記の定義では不足するからである。だが、はじめは自然数だけの世界で議論するなら上の定義が一番素直なのである。
では、上記の定義を教えた、という文脈で数学的に「5皿でそれぞれ3つのりんごが乗っている、りんごは合計で?」の解答を考えよう。
15個。
誤答。これは回答になってない。文章中に15という数が書いていないので、どこから15が出現したかわからない。
3+3+3+3+3 = 15、よって15個
正答。3個のものを5皿あるんだから足し合わせるのは自然。式変形は当たり前なので省略したのであろう、当然
3+3+3+3+3 = 6+3+3+3 = ...
としてもOK。
6+3+3+3+3 = 15、よって15個
誤答。たしかに3+3=6だが、それを計算したかどうかが伝わらない。数学的に等価だ、なんて理由にならない。
5+5+5 = 15、よって15個
誤答。文章中に「5個」という言葉が出てない以上、はじめの式の5は「5個」と解釈できない。だから足しあわせた結果はりんごの数を表現しない。
同じ数ずつ乗っているなら1個ずつ配っていくことで数えられる。一周で配れる量は5個で、3こずつ配るから三周する。よって
5+5+5 = 15、よって15個
正答。数式中に現れる5をリンゴの数だと説明しているからである。
3×5 = 15、よって15個
正答。我々の定義に従えば、その2の略記でしかない。
5×3 = 15、よって15個
誤答。我々の定義に従えば、その4の略記でしかない。すると同じ理由で間違い。
3×5と5×3は数学的に等価だ、なんてもう言わないよな?それを認めるとその3でさえ正しい。
数式とは「定義」という共通認識のうえで言葉を話すものであって、別の記述をしたら「偶然正しい」のか「根拠があって正しい」のかわからんのである。
結論は
数の概念を整数一般に拡張させると、掛け算の定義は上記では不十分で、分配結合則など環の性質にその本質があることに気がつき、そこに定義を移すことになるがまた別の話。そこまで行くと公理とは何か、整数とはなにかを考え直す必要が出てくる。そこで可換性自体は代数構造には不要であることにも気づくはずだ。
大事なのは定義を尊重する姿勢と、定義そのものに着目する(そして、定義そのものを疑う)姿勢を合わせ持つこと。ローカルルールだ、とか押し付けだ、とか言っているやつらが、実は一番思考停止してる。
まぁ小学生にここまで考えさせるのは、正直厳しいが上記正答例、誤答例を示してみるくらいはいいんじゃないか、と思う。
トラバが付きまくってるwみんな好きだね。
言いたいことが伝わらなくて、もどかしい。
ここまできて、根拠が「それが普通」だからてお前・・・。
今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃイカんでしょ。
「普通」には根拠はないだろう。「慣習」と言い換えてもいい。だから、この定義を疑うことが大事。ただ、一番最初に習う定義として、これを使うことが多いということである。
「それが普通だから正しい、それ以外は間違い」に集約される、と。
バカみたいだな。
「普通だから」ではなく、今の文脈では「3×5 = 3+3+3+3+3 を定義として採用するから」である。まずは定義を信用し、それ以外は知らないものとして扱わなければ数学じゃない。
m×0=0
m×(n+1)= m×n+m
まー俺なんぞが独力で導入できるような概念じゃないけど
それで定義すると、m × n = m + m + ... + m (n times) = n + n + ... + n (m times) = n × m が定理になるんだろう。
ようするに、どれが定義かって話じゃん。
そう、上記の「普通」は普通じゃないだろと気がついたときに定義に変更が加わる。そしてこちらの定義のほうが美しい。だから「これが掛け算の定義だ、そしてこれを定義にすればこの定理は明らかだ」という「文脈」では、5×3と書いても3×5と書いてもいい。
文脈についても議論がされているようだが、文脈こそ数式を語る上で重要なものだ。何を定義にするのかというのも文脈だし、どの定理を認めるかも文脈だからだ。
たぶん、5×3も3×5も同じ物と主張する人は可換性を自明としている。それこそが文脈である。しかし数学で何が文脈なのかは、状況によるし、今回は掛け算を定義したばかりなのだから可換性を自明とするのはおかしい。
「1皿につきりんご3個」と表現した時点でそれは3個/皿という比率しか現していない。3個+3個+3個+3個+3個=15個と言いたいらしいが、前処理を済ませない限りその3につけるべき単位は個ではなく個/皿でしかない。3(個/皿)+3(個/皿)+…、おいおい、比率って足せるのかよ?
単位の話をすると少し難しくなる、というか物理がわかんないのでそこを正確に語れない。だが、あなたの主張を通すと 3+3+3+3+3=15 は間違いだ、ということにならないか?これを否定されるとどうしようも無い。