はてなキーワード: ポジティブ教とは
http://anond.hatelabo.jp/20080317180413
ある事象に対し情報を集め、総合的に判断してこの手段方法で臨むべきだ、というエントリーはほとんど「ポジティブ教」的になるんじゃない?
それに、文章上の修辞技法としても、とりあえず一度試してみたら、がんばってみたら、というのは不可なの?
俺は原則「勉強しろ、働け、文句言うな。人生なんかデフォルトで面白おかしいもんじゃない。」って立場だが、増田から見るとポジティブ教なのか?
俺は最近ネットで「社会が悪いって言ってよ。僕が悪いんじゃないって言ってよ。言ってくれない君は敵だよ」って奴が集まって「お前らはわかっていない」という連中が、群れを成して絶叫しているのを見かけるのだが、彼等は俺を叩いているのか?。
http://anond.hatelabo.jp/20080317180413
追記しとく。この件に限らないのだが、反対意見を言うときに、「それは自分に都合が悪いから」反対している奴等がいる。きちんと「俺には都合が悪い」と言っている奴はいいのだが、それは伏せたままさも正論のように言う連中がいる。
で、どっちよ。
いや、しかし、彼らは「敢えて」目を逸らしているのであって(少なくともそういう系のエントリを書いた側の人間は。それに踊らされている方はどうだかしらないが)、いわば「現実から目を逸らすテクニック」を駆使して前へ進もうとしている訳で、別にそれが悪いわけではない。
人間とは基本的に弱いものだ。
現実を常に見据えながら前に進む、というのはなかなかできるものではない。
だから人間は前に進もうとする時、意図的に「現実から目を逸らす」のである。
「やればできる!」「あきらめなければ夢はかなう」などなどの呪文を唱え、前へ進もうとする。
あるいはそれらは少し呪文としては古臭く、いまはどちらかというと「現実も見た上でなんだよ」という感じをアピールした
「確かに努力したからって報われるわけじゃない。でも、成功した人は皆努力していたんだ」とか
「確かにやったからって絶対成功するわけじゃない、けど、やるしかないんだ!」とか
いうのが近頃の流行だ。しかしこんな中学生のような「現実もちゃんと見た上でだから」ポーズなんぞ「現実見てないわけじゃないんだからねっ!」という免罪符以上の意味はない。基本的には「やればできる」と同じ、「やるしかないんだ」と敢えて現実に蓋をして進もうってことなのだ。
現実に蓋をしまくって、見ないようにして、ひたすら目の前の希望や可能性の存在をあると信じて突き進む。それがポジティブ教のメインの行動である。そしてそれは彼らにとって絶対的に「真」である。「正しいこと」である。これらを認めない人たちは「おかしい」のである。弱者であり、逃避者であり、許しがたい存在なのである。だから彼らはそんな「非・ポジティブ教」の人たちを見ると、物凄い勢いで彼らを捉え、次々に強引な手口で勧誘する。「逃げてるだけでしょ?」「そうやって愚痴ってるあなたって何の意味があるの?」等の、「相手を否定させ弱らせたのち引きずりこむ」などの相当あくどいやり方を平気で使い、「ほら!あなたの人生、ポジティブ教にはいらないとどん底だよ!いいことないぜ!それでいいの?え?それでいいの?あとはつまらないこといって死ぬしかないんだよ。ほら。ほら。ほら」と脅しをかけ、相手になんとかして認めさせようとする。時にガツンとした反論を食らうと物凄い勢いで感情的に食らいつく。「そうやっていつまでも負けたままでいれば?」「ていうかそういう人の存在が迷惑なんだけど。愚痴ってこないでよ迷惑だから(<問題をごっちゃにしている)」「とかなんとかいって逃げてるだけでしょ(<とにかくこれを言えば勝ちだとばかりに呟き続ける。論理的反論にもなにもなっていない)」これは、自分たちの「神」の存在が揺らがされるのが怖いからこんなに過剰になるのであるが。
あのね。君達がポジティブ教信者なのは構わない。一向に構わない。確かにそれにも一片の真実はあるだろう。
しかしだね、その君達の過剰な勧誘、他の宗教は認めないという強硬ぶり、それをなんとかしていただきたい。
逆に言うとそうやって皆をポジティブ教に誘わなければ、君達は不安なのかい?「逃げてるだけだ!!」って仮にそうだとしても君達にはなんの関係もないことだしそれこそ君達の宗教を借りて言うならば、「その時間を使って自分を磨いたほうがいい(これもよくポジティブ教が反論されたときに使う決まり文句である)」のではないか?わざわざ他宗教の人に構っている場合なのかい?
もういい加減、ポジティブ教の「自分達こそが絶対的に正しく真である。お前らも俺たちと同じ考えに染まって、その行動を見直すべきである」という攻撃が鬱陶しくてたまらんのですよ。ポジティブ教信者はその傲慢さをもっと自覚せい。
続き。
まず、この関係をどのように考えるべきか。社会的地位が低いから低セロトニンになるのか、低セロトニンだから社会的地位が低くなるのか。
ただ、うつ病(だけじゃなく精神的活動全般)に関しては「鶏と卵」のような働きが沢山あるので、因果関係を明らかにすることは特に重要じゃないのかも。たとえば、「うつ病になると食欲不振になり、栄養不足からますますセロトニンが不足する」とか「ストレスを感じると過去の嫌な思い出が甦り、それがますますストレスを感じさせる」とかいったことだ。
ワーキングプアな人が割高なジャンクフードを食べてることがあり、「無駄使い」だと非難されることもあるが、これも「抑うつ状態だから食事に気が回らない→ジャンクフード→栄養不足→ますます抑うつに」という悪循環のパターンがあるのかもしれない。
それから、小飼弾さんが「幸せだから笑っているのではなく、笑っているから幸せなのだ」と赤木智弘さんを諭したことや、少し前に話題になったポジティブ教についても考えさせられた。
ポジティブな人はポジティブでいる限り積極的に行動し、成功すればさらに自信を得てますますポジティブになる(失敗してもしばらくのうちは「逆境をバネに」できるだろう)が、抑うつ状態の人は現在の状況から脱出することができず、負けないうちから「負けた教信者」となってますます抑うつになる。ポジティブな人は抑うつの人に「もっとポジティブにならなきゃ!」なんてアドバイスもすることもあるが、両者の間には共通言語がないかのように話が通じない。ポジティブな人には抑うつの人の気持ち――文字通りの意味で「気持ち」の問題だ――が理解できないのだ。逆もまた然りで、抑うつの人はポジティブな人のアドバイスは最初から耳に入ってない。
「希望格差社会」という話もあったが、「勝ち組」と「負け組」の格差が開き出すと、それをきっかけに両者が「ポジティブ教信者」と「負けた教信者」に分化し、ますます格差が拡大し、固定化していく構造が社会や経済の分野だけでなく、我々の脳内にもあるのかもしれない。
それがいつの間にやら、「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
これは同意。自己改革セミナーに踊らされたやつって、ポジティブというキーワードに酔って何も考えていなかったんだろ。
だけど俺としては最近はポジティブシンキングですら叩く病的なやつらの方が目について仕方ない。「頑張れば良くなる」という記事にやたら噛みつくが、実際には「頑張らないと決して良くならない」という現実から目を背けたいだけじゃないかと。汗を流す事を嫌って何かにしがみつく点で自己改革セミナーに踊らされたやつと変わらない。
何か悲痛に見えるんだよな。
いみじくも赤の女王が言ったように今の日本は「その場に止まりつづけたいなら全力で走るしかない」のさ。一生競争にさらされるし、一生努力と勉強が必要だぜ。早く受け入れろよ。
>「また失敗したらどうしよう」、「みんなの足を引っ張るくらいなら何もやらないほうがいい」、「自分は何もできない、生きてる価値がない」
まさにデプレッションの典型w まんまだなあ。
>「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
これ、確かオノヨーコが言ってた。「あなたにはできないことは何もないのよ」とショーンを育てたらしい。限界のない子に育ってほしかったからって。アメリカの、あの世代の特徴なのかもしれない。だけど
「でもママ、どんなに頑張ってもパパを生き返らせることはできなかったじゃないか」
といわれたときは、ほんとに辛かった、と言ってた。
>「自分が変われば、世界観が変わる」
というよりは、自分が自分であることを確信するということじゃないかな。
欠点は誰にでもあるし、どうしても直してもらいたい、という人もいる。傷つける人もいる。償いはする。努力もする。でもどうしてもできない、納得できない、あるいは短期間にできないのであれば、それを受け入れるしかない。とても、悲しいのだけど。
>「自分を大切にできる」感情
ちょいずれるが、ポジティブ教を批判しているid:y_arimやid:hokusyuがネガティブ・シンキングというわけではないんだよな。
あの人たちはあの人たちで、自分の意見に自信を持っている。
ポジティブ・シンキングって、本来「また失敗したらどうしよう」、「みんなの足を引っ張るくらいなら何もやらないほうがいい」、「自分は何もできない、生きてる価値がない」なんて思い込みやすいネガティブ・シンキングに対して、「自分を大切にできる」感情を作り上げていく方法だと思うんだよね。
それがいつの間にやら、「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51
「ちょっと」を毎日。
- 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
- 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。
- 毎日努力している人にはどんな天才も絶対に及ばない。断言していいです。
- 大事なのは毎日(毎日じゃなくてもいいんだけど、常日頃)続けること。
- とにかく結果を焦らない。落ち着けって。
- 今日の努力が実を結ぶのは、だいたい1年後。のんびり行くしかないですよ。
- ちょっとだけやる。「ちょっと」が超大事。
- ダイエットしようと思って、いきなり5キロ走るから辛くなる。初日は着替えて玄関出るところで終了。
- だけど、やろうと思ったらその日のうちにやる。絶対やる。1歩踏み出すだけでいい。
- 今日行動を起こさないと、ゴールにつくのが1日遅れるよ。
- あんまり遅れると、そのうち門が閉まるよ。
バイオリズムに逆らわない。
最初にここまで読んだとき、よくあるポジティブ・シンキングのメソッドの一つだと思った。それで長すぎるので読むのやめたのが、何時の間にやら4桁に達するブクマがつくお化けエントリになっていたのであった。
実録・自己責任教の信者たち - HINAGIKU 『らめぇ』は元エントリも、それに異を唱えるd:id:fromdusktildawnもひとしく自己責任教であることには違いがないと喝破している。
なるほど、どちらも「成功するためには何をすればいいか」ということを問題としている。そして、guri_2の「地道な努力」とfromdusktildawnの「効率的な、正しい努力」のどちらが正しいのかはかなり哲学的な問題であって、一意の答えがありそうではない(というか、fromdusktildawnの言う努力も本人が考える以上に地道なものである。「最小の努力」などと言っておきながら、「意識を研ぎ澄まして」、「目を皿にして」チャンスを捕らえろ、などという。結局たゆまず努力するしかないのだ)。
さて、guri_2のエントリに戻って、先の引用の部分以降を読んでいくと、いきなり
気持ちよく過ごせないのは周りじゃなくて自分が原因です。
とあって、驚く。「イメージと現実をごっちゃにしない」はずではなかったのか。日照りが続くのは自分たちが神様に生贄を捧げていないことが原因、って原始人かよ!
その後の「何かのせいにしない」も、全ては自分のせい=自己責任ということになるだろう。
それにしても「とりあえず100万円は貯めておく。余裕が出る」と言っておきながら、y_arimのコメントに応答して、
ただ、月並みですが電気ガス水道をたびたび止められ、狭い部屋で共同生活しながらも夢を追いかけている友人を見ていると、デッドラインはいくらもで下げられるのでは、と思ったりします。
というのは何なのか(実は見当がついているのであるが、ここでは言わない)。そのほか、アドヴァイス間の矛盾が多々ある。
さて、それでもコメント欄やブクマには「勇気がでました」という反応が見られる。それ自体は良いことである。こうした自己責任教がどうして人をポジティブな気持ちにさせるのか。
アル・ゴアの『不都合な真実』を見た人は「不都合な真実」を見せ付けられたにも関わらず、絶望は感じなかったのではないか。それはゴアのエンカレッジメントの上手さがある。深刻な環境破壊の現実にも関わらず、ゴアはフランス人権宣言、リンカーンの奴隷解放、ロシアの農奴解放、ガンジーの非暴力主義による植民地解放運動などを引き合いに出し、「人間はこれまで不可能と思われてきたこともやってきたじゃないか」という。こうした楽観主義が観客を勇気付けるのだ。つまり、人間には環境問題に取り組む「責任」もあるが問題を克服する「能力」もちゃんと備わっている、「能力」があるからこそ、それに応じた「責任」を負うのだ、ということを指摘する。
同じような現象がguri_2のエントリにも見られる。つまり、エントリに勇気付けられた人は(エントリを見るまでは勇気がなかった人であり)、そこに自分の底力、潜在能力があることを発見したのである。「自分はまだまだ頑張れる」のだと。自分に自分の人生をコントロールする能力あるからこそ「人のせい」にはしないのだ。
逆に考えてみよう。自分のおかれている立場が自分以外の「何かのせい」だとすると、それをコントロールする能力はないし、そのことに本人が責任を負う必要は無い。誘拐犯に拉致され監禁された人間が、脱出できない自分が悪い、とか「もっと注意して歩いていれば」などと考える必要がないのと同じことである。
ところが、最近では(イラク邦人拉致事件で明らかになったように)上記のようなケースにすら、自己責任を適用しようとするのである(性犯罪被害者への「夜道を歩いていたのが悪い」というような、セカンドレイプはそのはるか以前からあったが)。
ここにguri_2の問題点がある。「何かのせいにしない」、「自分が原因です」は無前提に使用できる言葉ではないのだ。
何か重大な不幸がその人を襲ったとき、「自分が原因だ」、「自分が悪い」と考えること、それは普通ネガティブ・シンキングというのではないか。「自分の家族が不幸せなのは自分が原因だ」、「自分のチームが成果を出せないのは自分が足を引っ張っているから」、「子供が難病にかかったのは自分が墓参りを怠ったから」……。こういった思考法が容易にうつ病や自傷行為・自殺、カルト宗教への入信といったさらなる不幸をもたらすことは想像に難くない。もっとも、guri_2は「そんなときもあるさ」(これは明らかに失敗を何か運やツキのようなもののせいにしているのだが)とか「できないことが多くてもくじけない。続けていれば必ずできるようになる」、「だってオレも↑これの9割方できてないもん」という安全弁を用意してはいる。
しかし、無制限な自己責任論が過剰に自己処罰的な傾向を生み出すということにはもう少し敏感であるべきではなかったか。テレビドキュメンタリーに登場する若年ホームレスやネットカフェ難民が一様に抑うつ状態にあって「自分が悪かったからこうなった」と発言するのをguri_2はどう見ているのだろうか?