それでも、研究の果てに純粋に人生を終えられたことを少しだけ羨ましく思うんだ。
僕は「食えそうだから」と工学部の無難学科に入って、「いまは働きたくないから」という理由で修士に進んだ。
それから、「いつか美しいものを求めたい」、「金のためにスーツを着ておべっか使うクソリーマンになりたくない」という理由でそのまま博士になった。
入ったからには学位が欲しくて(取ってみたら、そんなもの何の役にも立たないのにね)必死で論文を書いた。
自分が研究したいと思うことはいつも理想論で散発的だった。それで、論文としてふさわしいかを考えるようになっていた。
論文というのはなにか自分の「ときめき」から離れたところにあって、自分を縛っている気がする。
大学院に入るときには「いい人」に見えていた教授が「人の気持ちが理解できない守銭奴」に思えてきた。
学位を取ったら、教授から逃げ出したくて高専へ抜け出してみた。ここではないどこかへ行きたくて、高専教員に「でも」なるかと思った。そして、業績は少なくて高専教員に「しか」なれなかった。
高専に行ったら、外から研究者扱いされて、中では高校教師みたいな仕事をさせられた。アイデンティティクライシスがあった。とにかく研究費が欲しくて応募しまくった。科研費も当たってほら吹きがうまくなった。だんだんと、高校教師に甘んじていることに耐えられなくなった。だから、研究がしたいんだと自分をだまして研究に打ち込んだ。勢いだけで大学公募に応募して運よく受かった。
気が付けば大学教員になっていた。アホみたいな事務が投げてくるクソ事務仕事とか、会議は踊るされど進まず委員会とか、論文にもならない卒研指導とか、目の前に差し迫るタスクを薙ぎ払うだけで精一杯だと感じる。
気が付けば、一応飯が食えるようになっていた。だけれども、じぶんが何をしたいのかわからなくなっていた。研究は論文のため? 論文は生き残るため? じゃあ、なんで研究やってんだ。あれ、何を明らかにしたかった。どこかにあるはずの「ときめき」を求めてあらゆる妥協と工夫を重ねてきたのに、たどり着いた先には何もなかった。
現役の大学教員が増田か。むかし「研究する人生」っていう匿名BBSあったわ。
??「日曜日に魚釣りに行って、ああ川の流れがキレイだし、景色もまたいい。それで、つい住まいをそこに構えてしまったために、魚屋になってしまった。そんな感じで○○になって...