通勤時間の便意というものは、毎日労働に勤しむ諸兄姉ならば一度は経験したことがあるだろう。
意に反し、ブツが肛門から排出されようものなら、我々の名誉はマントルを超え、内核に至るほどに失墜し、人間としての尊厳を保つことは到底不可能だ。
数週間前、某SNSにおいて電車内で排泄してしまった男の写真が晒し上げられた。目にした方も多いのではないだろうか。
ただ電車内で排泄してしまっただけならば、SNSでバズるほどには至らなかったはずだ。彼が話題になったのには理由がある。
写真から推測するに、彼は電車内で極度の便意を催した。そしてあろうことかその場でパンツをおろし、排泄の実行に至ったのである。
常識では考えられない行為かもしれない。しかし実は彼の行動は賢い。
パンツを履いたまま液体状になったブツを排泄しようものならば、車内で軽蔑の眼差しを向けられるうえ、電車から降りた後も茶色に染まったケツは芳醇な香りを纏い、公衆の面前を移動し続ける。
お気に入りの一張羅も二度と日の目をみることはなくなってしまう。
しかし、その場でパンツさえおろしてしまえば、車内で軽蔑の眼差しを向けられるだけで済むのである。一時の恥を凌げば、何事もなかったかのように一日を優雅に過ごすことができる。
だが人生はそううまくはいかない。SNSに晒し上げられたのは誤算であっただろう。彼の気持ちを汲み取れば、写真を撮ってSNSに晒すなどという残酷極まりない行為はできないはずだ。拡散に加わった人間も含め、猛省していただきたい。彼の擁護はこの辺にしておこう。
誰もが行う生理現象にもかかわらず、閉鎖空間での便意は恐怖の対象となる。しかし、その恐怖から我々を救ってくださる存在もある。近場のトイレだ。
近くにトイレさえあれば、短時間の我慢と引き換えに自身の尊厳を保つことができる。幸い、一部の小さな駅を除けば、駅にはトイレが併設されているのが一般的である。
「次の駅で降りればいい」
通勤時間の駅のトイレはあなたと同じ便意に支配された人間が直線状の先入れ先出しコミュニティを築いている。
ここであなたは考える。残りの通勤時間と、コミュニティに加わる時間を天秤にかけるのだ。
そして大抵の場合、通勤を継続したほうがよいという結論を得る。
駅のトイレはすぐに救ってくれない。その事実を、ほとんどの人間が理解している。あなたも理解していたはずだ。
だから緊急時に立ち寄ることはほとんどないし、緊急性がなければ薄汚れた駅のトイレを使おうなどとは考えない。
存在意義はあるのか。