2007-08-02

anond:20070802021628

ならばそれは起るべくして起ったのであって、別段問題ではないように思うのだけれど。

たとえ外部から貧弱に見えようとも、それで当事者たちが困っていないのなら、それは貧弱なのではなく最適化されていると考えるべきだと思う。

例えば、文化によって虹の色数は違うし、色自体の概念も異なっているというのは有名な話だけれども(極端な話、かつての日本の「赤」と、英語の「RED」が同じであったとは思えないように)、そこに何らかの色が欠けているからといって貧弱とは言い得ない。現在PCでの色表現は普通一色素あたり8ビットを使っているけれど、これが128ビットになったところで、ぶっちゃけ視覚的に大した差はないだろう。こういうのをリソース無駄という。

同じように、たとえ外部から見てボキャ貧に見えても、彼らにとってそれは必要十分であり得る。またそのことが必ずしも低脳を意味するわけでもない。むしろ豊富ボキャブラリを持つことが、無駄となりうることさえある。個々人が別々の環境に生きている以上、それを考慮すべきでもある。深海魚が肺を持つ必要性は何処にもない。

とすれば、深刻なのは「ボキャ貧」ではなくて、「ボキャ貧を問題であると考えてしまう」ことにあると思う。

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