はてなキーワード: 権利とは
子持ち(あるいは妊婦)が突発的に休む
↓
その分の仕事を比較的タスクが少ない人や知識レベルが同じ人がカバーする
↓
繰り返していくうちに負担になる
っていう流れを誰かがXで嘆くと、「悪いのは子持ちじゃない。一人休んだくらいで回らなくなるような会社が悪い」て言う人が必ず現れる。
本当にそうなのだろうか。
もちろん子供の事情で休むのは仕方ない。だけど「仕方ない」と言っていいのは、その分の仕事をカバーしてあげているその人だけであって、「自分もカバーしてきたから」とかいう理由で他人がとやかくいうのはお門違いじゃないか。
明日戻ってくるのかも分からないし、明後日だって分からない。そんな状況でが増えたりなんかしたら、もうその人に回すのははじめから避けようってなってもおかしくない。
よく「病気になったら、事故にあったら自分だって休むだろ」みたいな理論言う人いるけどさ、子供って自分が計画しないとできないだろ。病気や事故で休むことがあるって自覚してて仕事する人なんていないけど、子供の場合はそうじゃない。
周りの人だって皆、子持ちのカバーをする前提で働いているわけじゃない。それなのに、度々休むって自分で分かってるのに職について「子どものために休むのは当たり前、権利だ」なんて言ってればそりゃもう…反感は買うよ。仕方ないよ。
とはいえ、予備として一人くらい人員を用意しとけばいい論は分かる。
でもそれって、専門的な知識や技術だったりが必要な場合はかなり厳しくないか?
有能な人はそれなりの人件費がかかるから、予備として置いておくなんてほぼありえない。
ありえるのは、それくらいなら休みが増えがちな子持ちじゃなくて、はなからその人だけを雇えばよくね、てなる方だと思うよ。専門知識が必要なタスクは回すの辞めとこ、とかもね。
子持ちを雇うなら予備の人員としてプラス一人雇わなきゃいけない、なんて状況になるならどこも子持ちなんてとらなくなるよ。
・専門性がなく誰にでも引き継げて、
・タスクは一つずつとか少なめで、
とかだけ引き受けてた方がいいよ。休みやすくなるし、周りだけじゃなくて自分のためにも。
子供のためだろうがなんだろうが、休むのって当たり前じゃないからね。カバーしてくれてる人に感謝の気持ちすら持たないのは、社会人としてだめだと思うよ。
そもそも契約観点で言ったらメディアミックスに関する権利ってどうなってるんだっけ?
権利は原作者にあっても出版社が委託先で委託先が代理で権利を執行するってならないと原作者が勝手にドラマ化とか進めちゃうんじゃね?
勿論、食欲は生活保護という形で日本では保障されているわけじゃないですか
更に性的尊厳というのは法律上一段上に存在していて、強姦罪みたいな刑罰が別途存在してることから重要視されてることが確認できる
若い人たちへ。
これを書いている俺にもわかっちゃいない。
ただただ、世の中の分断というか、世相の居心地の悪さに、いたたまれなくなっただけのこと。
いわゆるデジタルネイティブとか。
コロナ禍を高校~大学生または社会人成りたての頃に経験したとか。
二十歳±5くらいが基本の対象で、
何か共感できる部分があるのなら、対象だと思ってくれていいと思う。
さて。
謝罪、というからには、何かについて後悔や悪いことをしたという思いがあって
それをするということが一般的だろう。
けれど、例えば知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまったような場合。
例えばそれが、20年、40年前のことだったとしたら。
これはもう、ただただ、とにかく、謝っておくしかない。
回りまわって今になって何か悪い結果を残した、ようなときも同様だろう。
今回、書いていくのはそういった類のことだ。
けれども、これに関して何が悪かったとか、どうすれば防げたとか、
そういうことを書いていけたらと思う。
前置きはこれくらいにして、本題に入っていきたいと思うが
俺はアラサーのおじさん。
太さに関して言えばそれほどでもない。
別荘があって、クルーザーがあって、継いでもいいと思える家業があるレベル。
毎週のように一人数万数十万の外食に行って、毎月ヴィトンを買って、連休毎海外旅行に行く、そういうレベルではない。
やろうと思えば、いずこかのブラック企業のように従業員を絞り上げて
廃業して、どこか海外の治安の良いリゾート地に移り住むこともできるが、
10年ほど馬車馬のように働いて丁稚奉公を済ませ、家業に舞い戻った。
以上で最低限の自己紹介とさせてもらう。
そして、本題。
ということだ。
いわゆるJTCにおいて、若手を大切にし過ぎる風潮ができている。
この際、今の管理職に指導力がないとか、そういった話はもうどうでもいい。
元気なうちにたくさん働いて、様々な経験と知識を吸収することが許されない。
経験もさせてもらえなかったとしたら、どうなるだろうか想像して欲しい。
自分がそれに就いた時のことを考えてほしい。
まあ、そう言われてみればそうだ。
けれど、結局誰かがやらなくちゃならないのなら、嫌々ではあっても、出来るようになっておいても損はないんじゃないのか。
そういうことを発信しているのを見かけることもあるだろう。
そんなことは賞味どうでもいい。
貴重な経験の機会を奪わせてどうする。
メンタル崩壊するような経験を積めばいいと言っているわけではない。
真っ当な商売で、まともな感覚を持ち、何かあったときにケツを拭いてくれる管理者がいる組織で
自分の体力と精神力を健全に保てる範囲で、最前線で頑張ってほしい、ということ。
老若男女問わず働かせられる。
脳みそと腕と足がついていれば、何が何でも働かせられる。
学の無い人間にやらせていた単純作業はロボットが代わりに行う。
赤紙が無いだけで、マクロ経済の蛇口を開けたり閉めたりするだけで
そんな中で、気力体力が十分で、
インターネットの妄言に騙されずにスタートアップや外資系や海外で
はたまた、インターネットの妄言に騙され、働きたくないでござると
成長期たる30歳まで時間を浪費し続け、
60代のジジイと同じような仕事でのんべんだらりと過ごした人間と。
もちろん、現実すべてがこうまで両極端ではない。
JTCでほどほどにパワハラを受けながらしょうもない仕事をやらされているか、
ほどほどに守られながら蝶よ花よとぬくぬくと育てられた結果何もできない人間に育つか。
FIREだって?お前たち、本当にFIREした人間が羨ましいか?
お願いだから、一度でいいから、まともな人間にFIREしたいか聞いてみてくれ。
稼ぎ切った人間こそ、どうやって社会にお金や経験を還元するか、考えているはずだから。
自分が定年になるくらいまで、自分の子どもたちを大学まで育て上げ、社会に出せるくらいまで何事もなく、両親と子供たちが無病息災、とまではいかないが
五体満足に生きていられればそれでいいと考えている。
それを間違っても口に出したりはしないが、ほとんどがそうだ。
そうでなかったら、今のようになってはいない。
俺がオギャーと生まれた30年ほど前。
バブルがパーンと弾けたり、Windowsが日本に上陸するかしないかと言った頃。
それから10年経ったころ、「失われた10年」、そういわれていた。
おれはインターネットでHTMLを書いたりUOに勤しんでたりした。
それから10年経ったころ、「失われた20年」、そういわれていた。
おれはアメリカに留学したり、ネットゲームで外国人と煽り合いをしていた。
それから10年経ったいま、「失われた30年」、そういわれている。
おれは体力の衰えを感じ、家業へ逃げた。ゲームは積むか観るかだ。
おれがオギャーと生まれて三十年間、何ごともなかったらしい。
確かに、何が変わったかと言われれば何も変わっていないようにも思える。
100円だったお水やジュースは、買おうと思えばコンビニに売っている。
3,000円持たされて買いに行っていた赤マルはそろそろ倍か。
物価以外はどうだ。
ゲームでお金を稼げるなんてな。日本でも最近はFPSと格ゲーも勢いがあるな。
MMOは全部3Dになった。スマホで出来るのは正直にすごいと思う。
けれど、やっていることは当時からそれほど変わってないよな。
遅延は少なくなったとは思うけれど。
こうして振り返ってみると、対して変わってないようにも思える。
そう、本質はほとんど変わっていない。文字通り変わっていなかったのだ。
そうして昨今、ようやく変わりつつある。変わらなければならない、と言った方が正確だろうか。
何となく肌で感じているのではないだろうか。
これはもう日本人の、というより人類のお家芸だ。外圧でしか変われないという。
超高齢化&少子化社会。AIの台頭。ロボット化。宇宙開発競争。
そして30年間、失われていた社会の中でのうのうと暮らしてきた自分たち。
正直、これから先の変化に着いていける気がしない。
と考えるのは無責任だろうか。
後進のために、ラッダイト運動よろしく半導体製造装置を壊して回るべきだろうか。
そりゃあ俺たちだって、これからは読み書きそろばんの時代から、
英語、クリティカルシンキング、コンピュータの時代だ、とかなんとか世間で騒がれていて、
けれど、これから待ち受けているのはそういうレベルのちゃちな変化じゃない。
一部の超天才たちがAIやIOTで繋がれた機械やコンピュータを操る時代。
彼らがこれからの数十年か百年ほどを牛耳っていくのだろう。
いや、もう牛耳られているのだろうけれど。
それは止めようがない。
その一部の超天才たちを日本国内で育てるような体制を作ってこなかったこと。
日本が嫌なら海外で勉強したら?と言わんばかりに対立を煽ってしまって。
そこについていけない、残された人間たちも、
いーよいーよ、そんなに無理してはたらかなくて。
と言われて経験値を全く積まずに育ったのちに、
ごめーん、あとはまかせた!とばかりに後進に残された負の遺産と対峙させる。
ごめん。確かにその期間、何もせずのうのうと暮らしてきていた。
先人たちに下駄を履かされていたことにも気づかず。自分たちの権利だけを主張し、
ただただ、社会の歯車であることだけで、義務を果たしたかのように。
もっと声を上げるべきだった。
世界第二位の経済大国だった30年前の日本で生まれておきながら。
30年間何もしてこなかったせいで失わせてしまった。
おれは、おれに下駄を履かせてくれていた従業員に報いるくらいしか思いつかない低能だ。
人にもよるが30を過ぎると、色々なところにガタがくる。
厄年、という風習があるが、これは至極的を得ているように思える。
だから、それまではどうか馬車馬のように働ける環境に身を置いてほしい。
さてこれから先、日本は世界で20番目か30番目くらいの規模の経済力で
飯と油を何とか買って食いつないでいくのだろう。
日本人の気質的に、皆で一緒に貧乏になろう、という形で収まることだろう。
細々と生きていけるくらいの形で没落していくのではないかと思う。
これはただのこれから起こるであろう仮説であり、単なる現象だ。
そんな中でも、何かに楽しみや嬉しさを見出して生きていくことは可能だ。
あなた自身と身近にいる人、これから出会う人を大切に、対面コミュニケーションを密にして。
失われた30年が無かったことになるくらいの、次の10年を目指していこう。
最後にもう一度。
失われた期間が30年に膨れ上がるまで何もできなくて申し訳ない。
けれど、「そうだよふざけんな、お前らのせいで○○」
ということを前の世代、親世代、人生の先輩たちに投げかけるようなのは
日本人ではないし、今回の文章で謝りたい対象ではないことは強調したい。
ここに伝えて筆をおきたいと思う。
われわれがヒーローなんていない時代に生きているのだという人々は、目のつけどころを知らないだけなのだ。
あなたがたは、毎日工場の門を出入りするヒーローを見ることができる。
他にも、数は少ないが、われわれみなそして全世界にありあまるほどの食料を生産しているものもいる。
あなたがたはカウンターの向こう側でもヒーローに出会うことができる。
自分自身やアイデアを固く信じて、新しい仕事や富や機会を作り出す起業家がいる。
ヒーローたちは個人や家族であり、その税金が政府を支え、自発的な寄付が協会やチャリティや文化、芸術そして教育を支えている。
愛国心は口にはださないが心に深くきざみこまれており、その価値観がわれわれの国の生活を支えている。
わたしはヒーローのことを第三者のように話してきたかもしれないが、私が言いたいのはあなたたちのことである。
なぜなら私が話しているヒーロー、つまりあなたたち、この祝福された国の国民たちに向かって演説しているのだから。
あなたたちの夢や希望、目的は、神に誓って、この政府の夢であり、希望であり、目的なのです。
https://open-shelf.appspot.com/UnitedStatesPresidentialInauguration/RonaldWilsonReagan-1.html
このケースで脚本家が著作者にあたるかどうかはハッキリしていないと書いたつもりだけど。
携わったのが確定している以上、(脚本という役職以外でも)クレジットされる権利はあるべきだし、それらクレジット案が全て拒絶されたことを前提としている。
原作者は最終的なドラマの出来については満足していたということについてはどちらも認めているんだよな。
で、小学館の方で新たに発覚したのが「脚本家の例の投稿によって原作者は原稿が書けない状態になっていた」ということ。
これ読むと脚本家のSNS投稿が原作者の死のトリガーになったってハッキリ言ってるように聞こえる。
それがなければ制作中のトラブルはあっても「慣れない新人Pに担当されて大変な目にあったけど脚本家を追放してドラマ化大成功した件」で終わるはずだった。
日テレが再三主張している伝達のミスも、そもそも脚本家が「原作者の指摘を直接見たくない」と言い出したのが発端に見えるし、
SNS投稿の原因となった「9,10話に対して脚本家が協力などの形でクレジットを載せろという要求が通らなかった」ってのも、
それらが最終的に原作者の脚本で進んでいたことを考えると無理のあるゴネに見える。
・脚本家が見たくないと思ったほどの原作者の指摘とは具体的にどういった文面だったのか?
・9,10話には本当に脚本家のアイデアが一切(例え偶然にでも)使われていなかったのか?
・アイデアが一切使われていなかったとしても、脚本の作成を途中まで行っていた以上クレジットするというのは慣習として標準的なのか?
1つ目については両社の報告書にはやや怪しい部分がある。
原作者とのやり取りの文面は膨大な量になっているはずなのに、具体的に提示している文面は
「短大の設定を変更したこと」や「4話時点で入れ替えなどによる作品崩壊を指摘する文」など同じ箇所を引用しているのだ。
穿ち過ぎかもしれないが、他の箇所では表に出しづらい語調のものがあり避けた結果と考えることもできなくはない。
もちろん問題を考えるうえで様々な理由で被ったとは思われるが、
何にせよ大部分の文章は表に出ておらず、脚本家の要望が妥当と思える文面があった可能性は捨てきれない。
2つ目については原作者の脚本が丸ごと使われている以上ありえないように思えるが、
日テレの報告書では脚本家が「9,10 話で本件脚本家のアイデアを一切使わないでほしい」と要望した文面があり、
このことについて報告書ではスルーされている。(小学館側は知りようがないので当然不記載)
また、小学館の報告書によると、原作者はドラマの演出者からの意見を反映させて脚本を完成させたとある。
この演出者の意見がじつは脚本家の案を反映させたものであった、という可能性は無いとは言えない。
また、偶然原作者の脚本の内容が元の脚本と被っている部分があったとしても、
すでに現場から外れていた脚本家には流用されたとしか見えず、上記の要望へ繋がったとも考えられなくはない。
そして3つ目。
日テレの報告書で「状況を鑑みて脚本家の権利として商習慣上「脚本協力」のクレジットが表記されるのが当然」と脚本家が述べているが、
おそらくこれは最終的に使われなかったとはいえ「一旦は脚本を完成させるところまで作業をした」のにも関わらず、クレジットされないのはおかしいという話であると思われる。
例えばシン・ゴジラでは途中までひるね姫の神山健治が脚本を書いていたが、最終的に大まかな要素を残しつつ別物となったものを庵野が書き上げ、神山は企画協力というクレジットになっている。
これはオリジナル映画であり上山の要素もかなり残っているので当然と思われるが、
もし当人の成果物が使われていなくても途中まで参加していたメンバーはクレジットに乗せるという習慣があるのであれば、この要望は妥当であり、SNSで不本意を表明するのも妥当と言えることになる。
日テレも小学館も保身のためにより具体的な情報を出し渋っている傾向があり、これだけで特定個人の責任を論じるのは危険だと思われる。
一言では何も表してないし解らないから聞いてきてるのだろ?称賛してるブクマカ大丈夫か?
相手の目線にすら立てない人間が「人として接する」ことを語ってるのだけど、俺は落語でも見せられてるのか?
わからないと聞いてきた相手に返す言葉じゃないし、そんな言葉から始まったら書いてある内容なんて素直に頭に入るわけがない。
「厳しさは愛情」とか言うなよ。それはハラスメントをする側の常套句でしかないからな。
元増田もこんな増田の書いてあることなんて鵜呑みにせず、わからないならわからないままでどうすれば「人として接すること」ができるのかを悩み続けることが一番大事だ。
なぜなら、人には育ってきた人の数だけ歴史があるし、それにあなたのそうした良心を利用して騙そうとしてくる人間だっているからだ。
あなたが心底大事にしたいと思えた相手がいれば、その相手の歴史や背景を、聞き出すのではなく行動から見極める。
話しかけた言葉の一つ、プレゼントしたときのリアクション一つ、他人と自分に対する反応の違いの一つ一つをじっくりと観察して、相手に寄り添うとは何かを考えれば良い。
ただ、1点、注意すべきことがあるとしたら、相手の言葉だけを信じてはダメだ。何を言ったかより何をやったかを積み上げていこう。
言葉は嘘を付く。行動も嘘を付くがその積み重ねは本当になる。
そうやって不器用ながらも積み重ねて作り上げるものが「人として接する」という結果になっていく。
人には得手不得手があるのは仕方ない。
苦手なら人よりもじっくり時間をかければいい。
得意な人と同じだけの人間と仲良くなろうなんて考える必要はない。
相手の感情も好き嫌いも権利も尊厳も無視して、自分の都合のためだけに扱うこと。
ブクマカからのしょうもない承認欲求欲しさに、君という尊厳を踏みにじってモノ扱いした。
世の中は、こうやって口ではわかったようなことをいいながら自らの行動の矛盾に気づかない人間ばっかりで本当にうんざりする。
老婆心ながら一つアドバイスをするなら、相手を大切に思いたいなら、相手の大切に思っているものを大切に思ってやってくれ。
なぜなら、あなたのその大切にしたい相手は、その相手が大切にしてきた色々なもので作り上げられているからだ。
それができるようになれば「人として接する」を超えて「大切な人として接する」ことができるようになる。
相手の心を開くことは簡単ではない。ダメなときはダメと諦めることも肝心だ。
どちらにしても、何かを押し付けているようであれば、それは「ものとして接する」以外にはならない。
そこに男女の差はない。
とっかかりの部分では多少なり異性、同性の抵抗感はあるかもしれないが、人の心の深い部分に限ってはその差は存在しない。
この2つで考えていけば、もしかしたら元増田は心優しい人間になれるかもしれない。
異性の好みを言うと「分をわきまえろ。お前に選ぶ権利はない」
じゃあ異性の好みなんてないと言うと「『誰でもいい』は誠実さに欠けるので駄目」
この質問をされた時点で詰んでるじゃん
うんうん
なんでもかんでも「労基法で決まってるの知らないの?」って言う人と
なんでもかんでも「でも育休は国が認めてる制度だから、利用するのは権利だから」って言う人は
社会悪だよね
「人として接する」というのは普通のことではありません。トップコメの言うことは、正しいが、あなたには本当に難しいことです。
学校のクラスがあって、あなたが「人として接してきてくれたなぁ」という人はどれくらいいましたか?おそらくほとんどいませんね。学生時代は特に、自分に利益(面白いとか発言力あるとか)がない人には多くの人は冷たいものです。
不自由ない人からみた「人として接する」、それはその人たちが他の人達に普通に受け入れられ、普通に喧嘩し、普通に仲直りし、時には仲違いしたままになる、そんな「普通」のやりとりなんです。そりゃあ「普通にすればいいよ」といいます。その人たちは悪くない。だってその人たちには普通なんだもの。「変にセクハラみたいなことを【わざと】せずに、普通にすればいいんだよ」と思ってるんです。
あなたは違う。これまであなたに「人として接してきた人」なんていうのは、本当に少ない。されてない事はわからない。教わってもいないし。あいつ等が楽しそうに喋ってるのはたしかによくある光景だけど、それはこちらにはやり方は分からない。やってないから。やってないし、じーっとなんて見ないから。じーっと見てたら、「気持ち悪い、あいつは人に人として接しないやつ」と思われる。少なくともこちらは思われると思う。だって経験してきたから、そういうことを。分かるから、プロだから(笑)まあもっとも、見てるだけでできるなら誰だって大リーガーになれるわけで。
あなたにとって、人に対して一般的に言う「人として接する」というのは、とてもハードルの高いことなんです。だから、一つ一つ登っていかないといけない。全て網羅的に言うことはできないけど、大事だと思うことから順に書いていきます。
これは当然だと思うだろうし、「あなたは何考えてるか分からない」とさえ言われたこともあるでしょう。こちらの考えがわかってもらえずヤキモキしたり不本意に責任をふっかけられたことも一度や二度ではないはずです。
でもね、同時に、あなたはあなたの本心が見透かされてると思うこともあるんじゃないかと思うんです。下心が見透かされてるのではないかとかね。
あのね、実際のところ相手には分かりませんから。相手は単に、あなたがキモいからそう思うだけです。仮に本当にあなたに下心があっても、下心があると思われるのは、あなたがキモいからです。(てかそもそも下心があることが悪いことじゃないし。そこがズレてんだよなぁアドバイザー(笑)さんは。)カップルになる連中は、下心があって、下心を許容して、それでカップルになってるだけですから。「下心をなくせ」というアドバイスは下の下、何も見えてない。下心なくしてあなたが行く先は、ぬいぐるみですから。
下心はあってもいいのです。相手はあなたな下心なんて本当の意味では見透かせません。問題は「見た目と話し方」なんです。そして幸い、どちらもなんとかなります。
2. 見た目を整える
以下をやってください。
・服を全部捨てる
・季節ごとに服を買う(凄く凄く頑張って、店員を捕まえて、全身をコーデしてもらってください。ここ、残念ながら頑張りどころです)
・月ごとに美容院に行く(ここは予約さえ取れれば、あとは「いい感じにしてください」でなんとかなります)
3. 話し方を整える
オンラインでいいので、人と話すトレーニングをしてください。教えてくれる環境で。
「話し方講座」と調べると出てきます。
これらをしてやっとあなたに「人として人に接する権利」が与えられます。今はあなたには権利がありません。不公平はしょうがない。戦争のない国に産まれただけありがたいと思うしかない。足があるとか目が見えるとか、ありがたいと思うことはたくさんあるのでそう思って自分をなんとか誤魔化してください。権利を得るまでの辛抱です。もしあなたが権利もちになったら、これはもう素晴らしいことであり、最初から持ってる有象無象とあなたは違うということになります。逆に権利を持つところまで行けなかったら、あなたはいつまでもそいつ等以下。誰がなんと言おうと、見えない世間の目はそうあなたを判断します。もちろん奴らは「そんなことはない」というけれど、クマが出てきて誰を犠牲にするかといえば、あなたですよ。なぜならキモいから。理屈で考えりゃ、これまでいい思いをしてきた連中が食われるべきなんですよ。それが公平ってもんだ。でもそうしない。なぜか?あなたを下に見てるんですよ、結局。そんで逃げ切ったところで「良かったね、あの人可哀想だったね」とか言って女が泣いて、男が慰めて、まあその夜にでもセックスするんじゃないですか。こんな不条理あるか?と。あるんですね。まあ不条理がない方がおかしいんですよ、別にだれかが上手くバランス取るみたいなゲームみたいなことはないわけで。
人として人に接するには、まず権利が必要。で、その権利を得るためには、人は不要な努力をする必要がある。まあ見た目は他の人も努力してるかもしれない、そこはあなたのこれまでの努力不足とはみられるかもしれない。でも話し方は違いますね、割と持ってるものってところかなと。
あとは、権利を持ったあとに濫用しないことは注意ですね。それによって、あなたの行動が本心に沿ってしまう。その時は、キモさとは異なり、本当に本心が表に出てしまい見えてしまうから。そこだけは気を付けてください。
重度の知的障がいを持っている子供を見世物にして小銭を稼ぐYoutuberがたまにいる。「(障害を持った子どもが)またテレビを壊した」みたいなのだ。
なんだろう、自己情報コントロール権を侵害されて親の金稼ぎの道具に使われているというのは虐待以外のなにものでもないと思うんだが。
そもそも意思決定すらままならない(=本人の「意思」があるかどうかも不明)状況ということに付け込んで勝手に見世物にされるのはおかしいとしか思えん。
虐待は英語で"abuse"というが、この単語には「濫用」という意味もある。
で、意思決定すらままならない社会的弱者を使って本人の意思を無視し私腹だけを満たす養育者の行為は、はっきりいって権利の濫用いがいのなにものでもない。
はっきり言うけど、へずまりゅうやジョニー・ソマリみたいな迷惑系よりこっちの方がよっぽど問題だと思う。
というかこういう親がスパチャとかスーパーサンクスもらっているのを見て本当に気持ち悪くなったというか、人間ってここまで醜くなれるんだなーと悲しくなった。
いや子供が嫌いとかそういう感情もあるかもしれんしそこは仕方ない。ただ、それを胸三寸に納めずにネットを使って全世界に晒しものにする意味あるか?って感じる。
せめて5chみたいな匿名掲示板が限度なんじゃないの?(個人的には匿名ツィッター/Xもアウトだと思う)
ついでに「あいぽんの毎日」やSyamuのように、知的障がいを持っていると思しきYoutuberが自分の意志で投稿する動画に関してはまた別です。
これは基本的権利を行使しているだけなので動画投稿「自体」は責めるべきでは絶対にないと思います(動画の内容が問題とかはまた別問題)