はてなキーワード: 阪急とは
http://anond.hatelabo.jp/20081028194546
関係ない話だけれど、なんで六甲のおいしい水ってエビアンあたりよりも高いのだろう。
製造コストってせいぜい工場運営コストと輸送費ぐらいしかかからなそうなのに。
泉源は神戸市灘区篠原南町6-1-25で、六甲山系の花崗岩層をくぐり抜けた水であるが、採取地が住宅地の中(周りはマンションやダイエーグルメシティ灘店)と意外な場所にあるため写真週刊誌で記事にされたこともある。この土地は以前、六甲牧場という1879年(明治12年)創業の小規模な牛乳飲料メーカー(現在は存在しない)があった工場跡であり、六甲のおいしい水は、そこにあった井戸を基礎として採水し、トレーラーで奈良工場(大和郡山市)まで運ばれてボトリング(瓶入れ)されている。
ミネラルウォーターの作り方としてはやや特殊(普通採水地でボトリングまでを行う)ではあるが、2005年に西区に新工場(六甲工場)を建設し、2リットル入りの製品はこの新工場で採水からボトリングまで一貫して生産するようになっている。熱を加えない「フレッシュ無菌パック製法」を採用している。なお、500ミリリットル入りの製品は現在でも奈良工場で生産されている。
まさか阪急より南で採水しているとは思わなかった。
橋下氏の口の悪さは間違いなく問題だ。
不要な敵を作りすぎ。
しかしだ。
大阪に住んでいない部外者がなんでもかんでも「土建利権うめええ」とか言うのは早計すぎないか?
大阪には橋下知事になるだいぶ前から進んでいる箕面森町と茨木彩都の2つの巨大事業があるが、2つとも止血中だ。
箕面森町の方は今後は最低限のことしかしないことを橋下知事が表明した。
既に移り住んでいる住民からブーイングが出ているが、手を引く方針を明確に打ち出した。
茨木彩都は阪急など民間企業が主体なので府はあまりどうこう言える立場にないが、既に手つかずの東部は開発中止になっている。
中部に関してはいま大学や企業に意向を聞いているが、応募がなければこちらも手を引く事になるだろう。
住民から見れば、なんでもかんでも中断せず、評価損を拡大しない範囲で止めるところは止めている。
道路に関しては先日第二京阪が問題視されていたが、京都と大阪を結ぶ国道1号線は頻繁に渋滞を起こす。
http://anond.hatelabo.jp/20081018180211
大阪では「別にやらんでもええわ」と考える子も結構いる。
えーとつまり、教師から言われた宿題を、
「別にやらんでもええわ」と自分の判断でサボるって事?
思い当たる大阪府民が居たら何か一言頼む。
そこは、その学者が語ろうとしたところの本筋じゃないと思うよ。
多いけど、まあこの言葉もその程度ということで聞き流せばいい。
あくまでも、
だよね。
http://osaka.yomiuri.co.jp/edu_news/20081017kk02.htm
の中学生の正答率を見れば、一目瞭然。
高いところは大阪府の北側。
低いのは、大阪府東部南部。非公表のとこに注目。
淀川から南は比較的所得が低いところで、
ヨソ者の思う"大阪的"な要素がいっぱいあるところ。
みんな大阪府北部に住みたがる。
上のような事情を知っているから。
大型チェーン店ってその二店しか言えないってのは結構驚いた。
でもそんなにいうほど店舗数ないよね?あんまり見かけないし。
ここまで初登場の増田だけど、「大型チェーン店」と「大型店テェーン」だと
意味が全然違ってくるな。
大型チェーン店... TSUTAYA、BOOK-OFF、GEO、といった類。あと老舗だと丸善も。
(1店1店は小規模??中規模??大規模までさまざまだけど、展開エリア・出展店舗は広い・多い)
大型店チェーン... JUNKUDO、BOOOK 1st、紀伊国屋、...あとなんだろ。
(1点1点はそこそこ大規模で、小規模店はない。だけど店舗数や出展エリアで見ると、それほど多くはない。)
兵庫県民だから、大型の本屋といえば神戸発祥のジュンクと、阪急系のBOOK 1stのイメージが強い。
関東系とかは知らない。
ちょっと笑ってしまった(笑)
「電車の中で編み物をしないでください」と書いてあるほのぼの路線。
阪急の社風・車内雰囲気のほのぼのっぷりは異常なほどだと思う。
個人的な主観だと、東京圏の電車の乗り方・座り方の方がガメついよ。
よくいえば規律正しいんだけどね。
関西はいい意味でケチ。その場・その雰囲気の中で社会の利益の最大化をしてる。
たとえば各駅停車の電車で、ちゃんと7人(ないし6人)掛けを守るか?というと、
東京は7人ごとの窪みがついてて、どんだけ空いてる車内でもキチキチに座る。
関西は、空いてる時はまばらに5??6人で座って、混んできたらキッチリ詰める・席を譲る。
どっちが好きかと聞かれれば、やっぱ関西だな。
朝から買い物を終えたら帰宅したら夕方だった。
買い物疲れすぎ。阪急メンズ館とヨドバシのコムサを往復。ヨドバシのコムサはお値段が手頃なわりにデザインが好き。ただまあ、安いなりに、2倍の値段の違い程ではないが、確かに何か違いは感じる。
一日で計9万を投入する。なかなか気に入った。今回の投資には全然痛みを感じなかった。
たまにしか買わないんだし、時間をかけずにぱっぱと買っていきたいと自分を納得させる、というか最初から納得した上で購入していた気がする。
だがしかし、本当に自分はたまにしか服を買っていないのか?
もはや忙しさに負けて買ったもののメモとかを取ってはいないのだが、服に関してだけはメモを付けておいた方がいいかもしれない。
実は月平均でかなりかけているという可能性も否定できないしな。
一つだけ言えるのは、色々あってこの短期間でお金を使うことに対する意識が激変したということだ。
ジャケットに2万、と言われても何も感じない。
この前実家で兄がハルヤマ系列で1000円の服を買っているのを見て、昔は自分もそっち側にいたはずなのにな、ということを思い出して、あ、自分は何かが変わってしまったのだなと思った。
何か大切なものを無くした気分。狂乱の世界に身を置いている自分。
ちょっと行き過ぎている気がする。
世の中で靴には金をかけろというから2万円以上する靴を第一印象で買ってしまって本当に良いのか?とか。
このまま進んでしまって良いのか?自分は何がしたいのか?
阪急梅田の駅を出てすぐに僕は母さんからからいいつけられた通り、すぐにタクシーをひろって田岡さんの家へと向かった。田岡さんは母方の遠縁に当る人だった。母さんと田岡さんは親しくしていることもあり、僕も時々会うことがあるのだが、母さんの何に当るかになんてまったく興味がなく、ただ遠縁の親戚としか知らなかった。
大阪に来て田岡さんと会ったのにはちょっとした理由があった。
僕はここへ来る一週間前、ネットの友達と約束をしていたのだ。その約束というのは、"今から10日以内に大阪で落ち合おう、ただし携帯やインターネットは使わずにね。"というちょっと変わったものだった。この友達とは以前からメールやチャットなどでよく馬鹿話をしていた。"いつか会いたいね。"なんて話を時々していたのだが、一週間前の夜は二人ともやけに盛り上がって、いわゆるその場のノリというやつで、そんな約束をしてしまったのだ。今考えれば、ちょっと馬鹿な約束をしてしまったと思いもしたが、携帯やインターネットが当たり前の生活を送ってきた僕にはそんな待ち合わせが新鮮に思えた。
そして会えたら一緒に高野山に行ったり、もし時間に余裕があるなら、伊勢から名古屋へ行こう、と決めていた。しかし、どちらも大阪に詳しくないしお互いどこに住んでいるのかもしらない。当然、到着時刻もわからない。待ち合わせに困った僕は、田岡さんの氏名と住所を友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね?」と友達は念を押した。田岡さんが電話でつかまるかどうか、僕にもわからなかったので、もし電話で連絡が付かなかったら、郵便ポストにでもメッセージを入れておいてくれるように頼んでおいた。
お遊びリバイバル
梅田(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。
大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。
誰か暇な人続き考えて下さいませんか?w
友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
予定の時日を京都で費(ついや)した自分は、友達の消息(たより)を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜(べんぎ)になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻(さっき)云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入(かんいり)の菓子を、御土産(おみやげ)だよと断(ことわ)って、鞄(かばん)の中へ入れてくれたのは、昔気質(むかしかたぎ)の律儀(りちぎ)からではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控(ひか)えているからであった。
自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐(わか)れて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭(ひげ)を欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精(アルコール)に染められた彼(かれ)の四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥(くるま)の上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼(せま)っているだろうと思って、その地(じ)の透(す)いて見えるところを想像したりなどした。
岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居(すまい)は思ったよりもさっぱりした新しい普請(ふしん)であった。
「どうも上方流(かみがたりゅう)で余計な所に高塀(たかべい)なんか築き上(あげ)て、陰気(いんき)で困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上(あが)って御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。
青空文庫より拝借
http://anond.hatelabo.jp/20070701011231
自分は神戸大学に通っているが、
くっきりした差があるように思えたね。
少なくとも、大学のある山側からJRの駅周辺まで降りるということは、
学校生活の中ではよくある行動だし。
狭い地域で差がくっきり見えてしまうというのは珍しいことなのだろうか。
これを「格差」といってしまうと単に流行に乗ってるだけなんだろうな。
自分には、単純に就いている職業だとかによる階層差なのだろうかと思えてしまう。
余談。
亡くなった方の住所まで載っているのだが、阪急沿線以北に下宿していた人は一人もいなかった。
復興関連で色々調べたことのある教授曰く、資産が5000万以上無い人で
全壊した持ち家を再建できた人はまれだっだという。
- 元々は材木商である「佐久間屋」に由来して「佐久間町」と言う地名であった。材木商は大火のたびに莫大な利益を上げており、火除けの町秋葉原らしい縁起である。現在でも秋葉原駅東側に「神田佐久間町」、「神田佐久間河岸」という地名が残っている。
- 後にこの地に勧請される「鎮火社」を人々が秋葉社と呼んだことから秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)と呼ばれるようになる(上記参照)。
- 1888年 - 秋葉社が松が谷に移転。
- 1890年 - 日本鉄道の鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長。当初は旅客の扱いは無く、秋葉原貨物取扱所として駅の南を東西に流れる神田川から駅東側に割り堀を引いて水上貨物輸送への窓口となっていた。駅名をつけたとき「あきはばら」と誤植されるが訂正されずに今に至る。
- 明治中期から大正時代にかけ、秋葉原周辺は鉄道・都電など交通の便が良く、そのため、特に卸売業が発達し、秋葉原駅近辺に青果市場も開かれた。
- 1925年 - 秋葉原駅~東京駅間の開業により東北本線が東京駅まで開通。
- 1932年 - 御茶ノ水駅~両国駅間が開業し、秋葉原は乗換駅になった。
- 1935年 - 神田青果市場が設置される。
- 1936年 - 鉄道博物館(のちの交通博物館)が東京駅から中央本線万世橋駅(のちに廃止)の駅構内に移転する。
- 戦前から戦後にかけて - 地下鉄(銀座線)・都電・国電と付近で多くの鉄道・軌道路線が立体交差をしていたことから、鉄道・交通に関する子供向け絵本に、未来都市の象徴として秋葉原が描かれることがあった。
- 1945年の第二次世界大戦後 - 神田地区の闇市で当初電機学校(現在の東京電機大学)の学生のために販売していた真空管やラジオ部品など電子部品の店舗が総武本線ガード下に集まって、今日の電気街の基になった。
- 1960年代 - 高度成長と連動する形で、テレビや洗濯機、冷蔵庫など家電製品の販売店が多くなり、大阪日本橋のでんでんタウンと並んで日本有数の電気街の地位を築く。
- 1980年代 - ファミコンの普及に伴って、各種コンピューターゲームソフトを扱う店が増え始め、ゲーム関連の専門店も登場する。
- 1989年 - 神田青果市場が大田区(大田市場)へ移転。跡地は駅前広場・駐車場を経て現在の秋葉原UDXビル・秋葉原クロスフィールドとなる。
- 1990年代 - 家電製品の郊外型量販チェーンストアの台頭で、家電売り上げが減少。その種の電化製品販売を縮小してパソコン及び関連商品を扱う店が増える。
- 1994年頃 - パソコンパーツ(いわゆる「自作PC」の部品)を扱う店舗が増え始める。
- 1990年代後半 - コンピューターゲームの中で、美少女やアニメを扱ったものに人気が特化していき、秋葉系・オタクといわれる存在が注目されはじめる。
- 1997年7月 - 秋葉原駅前広場を会場にコンピュータ関連展示会「インターネットショーin秋葉原」が開催される。以後2001年まで毎年開催され、1999年からは「AKIBAX」の愛称がつけられるなど、秋葉原の夏の一大イベントとなる。
- 2000年頃 - メーカー製コンピュータの販売が縮小し、代わってアニメ・同人誌系などの店舗、いわゆる「オタクショップ」が増える。
- 2002年頃 - 秋葉原駅電気街口周辺にアダルト関連グッズ(AV・おとなのおもちゃなど)を販売する、いわゆるアダルトショップが進出。
- 2002年6月 - 安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例(通称千代田区環境保護条例)が制定。秋葉原のほぼ全域が路上禁煙地区に指定された。
- 2005年8月24日 - つくばエクスプレス秋葉原駅が開業。同時に、同駅東側に車寄せや駅前広場も整備された。
- 2005年9月16日 - 秋葉原駅構内の、旧貨物駅跡地にヨドバシカメラマルチメディアAkiba・タワーレコード秋葉原店が開店。
- 2006年3月9日 - 神田市場の跡地に秋葉原UDXビルが開業。秋葉原クロスフィールドがグランドオープン。
- 2006年5月14日 - 交通博物館が閉館。博物館は2007年、さいたま市に鉄道博物館と改称して移転予定。跡地の今後は未定。
- 2006年6月2日 - 仮称TX秋葉原駅開発ビルが着工。阪急電鉄がつくばエクスプレスから同社の駅周辺の用地を借り受けて建設・運営するターミナルビルである。2008年4月に開業予定。阪急系列のホテルremmがテナントとして入店予定。
- 2006年10月16日 - 都内で初めての区営有料トイレがJR秋葉原駅にオープンした。
- 2006年12月22日 - 2002年以降休止していたAKIBAXが「AKIBAX2006」として復活開催。
- 2006年12月31日 - JR駅ビルにあったアキハバラデパートが閉店。