はてなキーワード: 自己欺瞞とは
なんか違う。
それは本当に僕が求めているモノなのか自信がない。
むしろ、求めていないのではないかという疑念が消えない。
新しいことを始めようと、生活に新しい風を入れようと教室に見学に行ったけれど、なんか違う。
自分にとってそれは虚飾ではないか。
たんなる戯れではないか。
ずっとそれをやり続けて、果たして僕は喜べるのか。否。
そしたら、別のモノを検討してみよう。ピアノはどうだろう。前からずっと気になっていたじゃないか。
でもどうやっても良い想像が行き詰まってしまうんだ。どこかで満足できない自分が想像される。
どんなことにつけても、そう。
僕の周りは完全に閉塞している気がする。
追記:
100%ピュアな動機を探しているんだなあ自分は。これまで何年も自分を偽りすぎていたという自覚がある。だから、こんどは自分の欲求を、自分の中からわき上がってきた気持ちで動きたい。二度と間違いたくない。自己欺瞞に陥りたくない。そんな思いが強すぎてかえってぎこちない。それはたぶんこれまでの反動なんだと思うけど。
ストックホルム症候群(ストックホルムしょうこうぐん、Stockholm syndrome)は、精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。
犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情するなどし、人質が犯人に信頼や愛情を持つようになる。また「警察が突入すれば人質は全員殺害する」となれば、人質は警察が突入すると身の危険が生じるので突入を望まない。ゆえに人質を保護する側にある警察を敵対視する心理に陥る。このような恐怖で支配された状況において、犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより、協力・信頼・好意で対応するほうが生存確率が高くなるため起こる心理的反応が原因と説明される。
上述のように、ストックホルム症候群は恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作(セルフ・マインドコントロール)であるため、通常は人質解放後、犯人への好意は憎悪へと変化する。
1973年、ストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、犯人が人質を解放後、人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったという事件から名付けられた。
Wikipediaから引っぱってきた
俺には全然同じじゃないんだけどなー。だから気持ち悪がってるんだけどなー。難しいなー。
絵の才能がないから美大はやめろ
才能なんて見切れないよってのが俺の主張ね。美大に入ることと芸術家として生きていくことは別のこととして考えている。
元増田が美大に入れる程度に絵が上手いかどうかは見切れると思ってるのは否定してない。俺にも出来ると思うから。
教師に向いてないから教師辞めろ
将来どんな芸術家に化けるかなんて見切れないよ、という観点から、元増田及びその御友人一同の悩みは自己欺瞞だろ、というのが俺の主張。
ここまで一般化されるとごめんなさいって気分。言い過ぎたかなー。
元ネタ:http://diary.lylyco.com/2009/03/post_276.html
あってもいいけれど、なくたって全然構わない。そういうものは多い。
積極性というのも、そうしたもののひとつだと思う。もちろん、子供に積極性を持たせることができればいいこともあるかもしれない。けれども、せいぜいが「かもしれない」程度のものである。むしろ、役に立つのは積極性なんかよりも「生きたいという気持ち」ではないかと、個人的には思う。そして、「生きたいという気持ち」と「積極性」は必ずしも相関関係にあるわけではない。積極性なんかなくても「生きてみよう」と思うことはできる。にもかかわらず、いたずらに「積極性を持つことは大切だ」などとやるから「積極性がないから死にたい」だとか、おかしなことになる。むしろ逆効果ではないか。
教育で「積極性」を植え付けようとすることは、それらを「持つべきもの」と規定することになる。つまり、「それでも積極性を持てなかった人」は、ますます委縮することになるだろう。教育が100%うまくいった例は、たぶん、ない。つまり、必ず落ちこぼれる子供は出る。必ず、だ。ぼくはそれを恐れる。やる気があったり、積極性があったり、自分には生きる価値があると思い込んだりできる人は、確かに幸福かもしれない。けれども、そんなものは心のオプションにすぎない。やる気がなくても、積極性がなくても、人は楽しく生きていける。
やる気を持てないから生きている価値がない。積極性がないから生きない。どちらも馬鹿げている。人は誰しもただ生きているにすぎないのだし、積極性があるから何かをしているわけでもない。ぼくは自分の生に価値があるなんてこれっぽっちも信じていないけれど、案外楽しく生きている。何をするにも積極性なんてないけれど、気が向いたことはとりあえずやってみるし、たとえ積極性があっても気が向かないことは極力やらない。やるかやらないかを決めるのは、少なくとも「積極性の有無」なんかではない。失敗して恥ずかしい思いはしても、それで傷付くような積極心もない。
繰り返す。積極性みたいな内面的なオプションをまるで「価値あるもの」のように喧伝することは、それを持ち得ない人間にさらなるダメージを与える可能性がある。大切なのは積極性のある人も積極性のない人も、変に委縮せず生きられる内面を育むことではないか。その意味で、「積極性教育」みたいな言葉が子供の目に触れること自体、害悪だとぼくは思う。生きたいという気持ちを育む要素として「積極性」は必須でも重要でもない。積極性を持って生きるのもいいけれど、ダメ元で生きるのもいいし、そもそも結果なんて考えずになんとなく生きるのでもいい。生きたいという気持ち自体必須じゃない。
まあ、こんなのは積極性を欠如したぼくの大いなる自己欺瞞かもしれないけれど。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081221/1229832078
増田にこんな記事があった。
新卒時の面接でさえなかなか通らない位プログラミング能力に欠けている。
(中略)
ここで増田は「プログラミング能力」などと言っているが、しかしそれは幻想だ。プログラミングは「能力」ではない。「意志」である。
日本におけるJavaScriptの礎を築いたid:amachangは、自分のつたないソースが長年のコンプレックスだったらしいが、長じるに連れ、「むしろつなたないソースの方が多くの人が丁寧にアドバイスをくれることに気付いた」と言っている。そこから、人前にソースを晒すのが億劫ではなくなったそうだ。
「プログラミング能力が低い」などというのは言い訳に過ぎない。要は「プログラミングしたくない」というだけなのだ。する意志がないだけなのである。
それを能力などのせいにするから、問題がややこしくなる。そこから自己欺瞞が始まる。そして自己欺瞞は全ての問題をこじれさせる。
「プログラミング能力に欠けている」などという考えは、即刻捨てた方が良い。そして今から、「自分はプログラミングする意志が少ないのだ」と思うと良い。
そうすれば、問題点がクリアになる。そして全ての問題がそうであるように、問題点をクリアにすることが、問題解決への第一歩だ。
奇麗な理想を語るのに「で、実践は?」と問われてからアタフタと実績を取り出すような姑息な人の話に魅力を感じるのは、水伝を信じるより難しい。
少なくとも、Romanceは今年の3月の時点で、実践的活動をしてることは公言して
たよ。http://d.hatena.ne.jp/Romance/20080309#p1
と、ここで余談ですが、私の中で今「貧困問題」「野宿者問題」はすごく重要なテーマになってます。
私の個人的な研究テーマは「弱者問題を利用する俗流道徳の自己欺瞞」なので、弱者問題について広汎に興味は持ってました。去年、たまたま『ルポ最底辺―不安定就労と野宿』(生田武志著、ちくま新書)という本を読んで、ホームレスに対する偏見のすごさと、彼らがいかに悲惨な境遇にあるかを知り、結構ショックを受けました。それをきっかけに地元のホームレス支援団体にボランティアとして参加することにして、実際に野宿者の巡回をして話聞いたりしてます。まだまだ参加したばっかりで偉そうなこと言えないんだけど。。。
貧困問題についての本も読みまくってます。。。
Romanceに「現実見えてない」なんて筋違いの批判してたやつは、「現実知ってたらホームレスなんて支援できるわけがない。支援してるのは何か裏があるはず」なんて、偏見持ってたんだろうな。
その「現実」ってのが、単に自分の内面を他者に投影してるだけなのが惨めだね。
「俺はホームレスなんて支援しようなんて思わない人間なんだから、みんなそうに違いない。みんなそう思ってるはずなんだから、倫理的にどうこう言われる筋合いはない」っていうふうに。
君が女なのかどうかなのはよくわからないけどさ
内心蔑むため
「あなたの方がかわいいですよ」を期待しているんだよ
「あの猫かわいいよねー」という台詞に(アタシの方がかわいいけど)と言う意味を込める奴などいない。
自分より劣る(と思っている)人間でなければ褒めない人というのも居たら随分と捻くれ者だと思うけど
増田自身もその周りもそういう捻くれ者だらけなんだろうか。生き辛そうだなあ。
「(女性は)純粋にかわいいと思っているからかわいいと言っているだけ。」
こんなことを男が言ったら女に幻想持ちすぎだ童貞以外の何物でもないだろ。
でも仮に合コンにかわいい女の子を連れて来たとして、男性陣の関心がかわいい女の子に集中してしまったら内心面白くないし
次からはかわいい女の子を連れて来ないんだろ。
「助け合って生きているつもり」と言う振りをしているのは男のご機嫌取るためだけで。
最近増田に彼女のことを書いてばかりいる。いや、向こうはもう"彼女"だとは思っていないかもしれない。ぐちゃぐちゃな感情を整然と並んだ文字にしていないと、俺を保てない。
22歳にして初めて告白し、初めての彼女。知り合ったときから換算すると友達として4年の付き合いになる。それが本当に"付き合う"とは互いに思いもしなかっただろう。卒業を控え、っていうか卒業して、もう会えないと思ったら胸が締め付けられた。
中学校の初恋。卒業してバラバラになってからどれだけ好きだったか胸の痛みに教えられ、後悔する日々。いつもそうだった。後悔と自己欺瞞で過ごしてきた俺。もうそんなのは嫌だった。
正直、好きかどうか分からなかった。でも離れたくない。だから告白した。彼女の返答はすぐだったが、ずっと心に引っかかっていたし、今思えばそれがこうなる予兆だったのかもしれない。
ずっと友達だったから、急に変えられない。だから徐々にね。
そんなようなことを言われた。告白の返答としてはOKなんだろう。が、付き合い始めてからもいつから友達ではなく、"彼氏"として見てくれるのか、見てくれたのか、引っかかり続けた。
付き合い始めて起こったことは、俺にとって初めてのことばかりだった。大変だった。でも楽しかった。短かったけれど。わずか2ヶ月。初めてのキス。それが別れのキッカケになってしまった。
やっぱ友達としてのほうが良い気がする。
初め好きかどうか分からなかったが今は好きだ。今までで一番好きだ。そういう確信がようやく持てたのに、それなのに
何も手に付かない。眠れない。一睡もせずに朝を迎えた。昼は表面上は繕って過ごすことが出来た。でも何も手についてない。力が入らない。食べる気がしない。あれ?世の中ってこんなに詰まらなかったっけ?
メールでさよならは嫌だ。一度会いたい。その要望は聞き入れられた。週末、ウチに来るという。
スマートな俺は彼女の別れの決意を尊重しようとする。そうすればすぐには無理でも、まだ友達として、友達の感情の捩れで生まれた間違いだった彼氏彼女という過去を持つ友達として、いつか会える気がする。
バカか。
もう後悔したくないと告白した。俺はまた後悔したいのか。ダメでもともと!ダメな俺に、スマートなんてない! !! !!!…
常に論理的に、冷静に、冷徹に生きてきた俺。そんな仮面を20年被ってきたのに、今は論理の一つも検証できない。それくらい好きだって今更気づいた。なんで俺はいつも後手後手なんだろう。なんで自分の気持ちにその場で気づけないんだろう。なんで選択肢の第一候補が後悔なんだろう。もう傷付くのを恐れるのは止めよう。もう俺の体は後悔の傷に耐えられるほど強くはない。
彼女がウチに来たらどうしよう。思いのたけをぶつけよう。なんなら押し倒したい。でも、すれ違った彼女にそんなことをしたら。
俺が傷付くのは構わない。もうなりふり構うつもりは無い。だけど、だからこそ彼女を傷付けることは俺には出来ない
悲しい顔をする彼女はもう見たくない。彼女はバカ笑いしている顔が一番似合っているんだ。そんな顔を奪ったのが自分だと言うのが一番悲しい。
どうなるか分からない。でも最後にこう伝えたい。それが彼女とすごして一番分かったことだから。
君は笑顔が一番素敵だと言うことを。
いま・ここからはどうしようもできない問題を、まだ、手放せないでいます。それを強く胸に抱き込めば抱き込むほど、それの突き出た刺が自分に深く刺さると分かっていながらそれを解放できないでいる私は、自分を傷つけるよろこびに満ちあふれたマゾヒストみたいに鬱陶しいでしょう。いつまでも自分の大過去にこだわってばかり、いつまでも自分の苦しみや痛みやつらさや怒りにのみ心を注いでばかりいる私が、理解できないんでしょう。あなたはきっと、「早く忘れなよ」といいたいんでしょう。そんなものは覚えているだけ自分を害するから、その記憶ごと忘れてなかったことにしなさいと、いいたいんでしょう。
「悪い犬に咬まれたと思って忘れろとひとはいう」―だけどあなたは犬に咬まれたことを本当に忘れられますか。
あなたが捨てなさいといっている時間は、まぎれもなく私のものです。あなたが目をつぶりなさいといっている日々は、ごまかしようもなく、実際にあったことです。あなたが知りたくないといって切り捨てようとするその大過去は、それは、私の肉の一部です。あなたが私から切り離そうとしているのは、私の腕、私の耳、私の鼻、私の腹、私の足、私の血と肉と骨、そのものです。あなたが忘れ、捨て去ろうとしているものは、切断された、まだ温かい、まだ生きている、私の一部です。
こうやって書くのは、ずるいでしょう。「つらいのはお前だけじゃない」なに、私もそのくらいのことは、知っています。私はあなたに、理解を迫るつもりはありません。私はあなたに、私の傷の手当てや、私のえぐれたところの補修と修繕や、不足しているものの埋め合わせや、そんな面倒で図々しいお願いをするつもりは、ありません。私はただ、あなたに、知っていてほしいのです。いままであなたが耳を塞ぎ、知りたくないと切り捨ててきた私の血の通った時間のありさまを。
それは気持ちの悪い話です。だから、あなたが知りたくないのも当然でしょう。私がどんな男とどんな風に寝て、どんなひどいことをされて、どんな風に手首を切ったり薬をのんだり、祈りの姿勢で便器を抱いたりしたか、黄色いヨーグルトを酒で流し込んだあと、真っ白というよりはむしろ灰色に近い天井と病室の中で運悪く目が覚め、管と管のあいだで力なく横たわっていたひからびた私が、そこからどうやって、今の今まで、死にたい心をなだめすかし、ごまかし、騙し、つまずき、転びながらここまで泥だらけになって走ってきたのか。そんな身勝手で鬱陶しい、自己憐憫と自己欺瞞と被害者意識とにまみれたぐちゃぐちゃの黄土色の吐瀉物みたいに饐えた匂いのする時間から、あなたが目を伏せ背を向けるのも、致し方ないことです。
それでも、私は、私の一世一代のわがままをあなたに押しつけて、いいます。私は、あなたに、知ってほしいのです。他の誰でもないあなたに、私にあったことを、知っていてもらいたいのです。理解しろとはいわない、慰めろとはいわない、私を傷つけないと約束しろだなんて、もちろんいいません。私があなたに望むことはその一点を除き、何もありません。理解することは誤解することであるし、共感も同情も、安っぽい傷の舐め合いに過ぎません。そこから何ものをも生み出しません。それは恐ろしくくだらない、一人では立てそうにない弱り切った甘えたが生み出した、愚かでみじめな、他力本願の妄想に過ぎません。
それでも、私は、あなたのそれが欲しいんです。理解なんかしてくれなくていいんです。分かってなんかくれなくていいんです。同じものを味わわせて、あなたを苦しめたいわけではないんです。あなたに傷ついてほしいわけではないんです。ただあのときの幼い自分に、あなたに、味方になって欲しいんです。あなたが、私の時間をただ知っていてくれるというだけで、それだけのことで、大過去のなかの私も、現在に生きる私も、すごく勇気がでるんです。誰にも泣き声が聞こえないように、誰にも泣き顔をみられないように、心を砕き身体も砕いていた私という人間がいたことを、あなたに知っていてほしいんです。
といって、あなたに、特に何をして欲しいというわけではありません。あなたにしてほしいことはただ、黙って、この話を聞くことです。どうか私から目を逸らさないで下さい。どうかみっともない私という人間を無視しないで下さい。私は、あなたに、頷いてもらいたいのです。あなたに、私を、認めてもらいたいのです。
怒るべき時に怒らないとどんどん鈍感な人間になっていくのに。
良い人ぶって悟ったフリをして自己欺瞞に陥って。
本当に君はバカだな。
僕は仕事と遊びの境界線がないのが理想だ。
理論的には、だから、起きている時間はすべて仕事に当てることができる。
つまりは、自分の好きなことを仕事にするのが理想だった。
現実はそうではない。
僕はそうやって思いながら育ち生きてきたせいか、仕事と遊びの区別をするのがとても苦手だ。
オンオフの切り替えがうまくできない。
仕事人間、ワーカホリックになってしまう。あるいは極端にダラダラ過ごすか、である。それでいいと思っていた。それが僕だし、徹底して好きなことをするのは楽しい。
でも現実は、仕事と遊び(休み)の区別をつけなければいけないような仕事に就いている。
もともと熱中することにはすごくのめり込むタイプだった。
そして責任感と義務感が強い。
たとえいまの仕事が好きになれなくても、義務と責任は果たす。その2つを履行できたことに幾ばくかの喜びを感じることもできる。
でもな、やっぱり疲れるな。自分の身の丈に合っていない生き方は。
「その仕事を天職だと思って取り組め」というのがうちの上の人の考えだが、言いたいことはわかるものの、思いこみは自己欺瞞と密接に絡み合っているから、取り扱いが難しいものだ。
やはり長くはこの仕事続けられないのかもな。本音は続けたくないと思っている。もう少し自分の性格にあった職種で生きていきたい。試してみたいこともある。
だが、そうではなく、あくまでも「ここで、この職場で生きていくんだ」と覚悟して日々を送るべきだろうか。そうするメリットもある。目の前の仕事に集中しやすくなる。そうすれば中途半端な気持ちで取り組むよりずっと成果が期待できる。逆に覚悟が無く辞める気で仕事をやる場合最低限度すら到達できないかも知れない。しかしこの覚悟、精神的肉体的な歪みや疲労が溜まる危険性がある。なぜなら無理しているから。覚悟は覚悟でも、無理をするための覚悟だと思う。
いつか辞めるときは、"惜しまれつつ、颯爽と去る"ことができれば一番いいんだ。
やることをやって、自分の道を進む。
「コミュ力とは気遣いだ」「気遣いが出来れば恋人はできる」そんなものは嘘だ。信じたいものだけがすがりつきたい幻想だ。そんなものを信じられるのは余程運がいい人間か、現実を見たくない人間か、あるいは自己欺瞞に長けた人間だけだろう。
元増田がこの引用の2文目を書いたところでそろそろうすうす気がついているはずだけど、「気遣い」って十分条件じゃなくて、必要条件なんだよな。
「コミュ力を得るためには気遣いが必要だ」
そして、「運」「周囲の環境」「外見」などなど他の要素と比べた際に、一番楽に改善出来そうなのが、「気遣い」ということ。
要らない訳じゃない、むしろ必要なんだけど、それがあっただけではどうにもならない、そういうこと。
同じことを私より若い非コミュ諸氏にも申し上げたい。「コミュ力とは気遣いだ」「気遣いが出来れば恋人はできる」そんなものは嘘だ。信じたいものだけがすがりつきたい幻想だ。そんなものを信じられるのは余程運がいい人間か、現実を見たくない人間か、あるいは自己欺瞞に長けた人間だけだろう。
単にそれだけさ。
「気遣いができれば恋人はできる」真実だね。自分の思い込んだパターンの気遣いで駄目だったからって、幻想と断定するのは大人気ないぜ。
こちらの元増田だが、元記事作者のthir氏から反論が来たので再コメントしておく。
まず、thir氏の論旨は次の通り。
僕のいうコミュ力とは、「他者と会話のキャッチボールをすることが出来る」という能力のことである。自然と無意識のうちに相手に質問をし(あるいは質問に準じる機会を与え)、自分でもそれに対する返答や質疑を行う……というヤツである。
これはその通りだと思う。ただし、私が「コミュ力」と「政治力」を混同しているとの指摘だが、むしろその両者はほとんど同じものではないかというのが私の考えである。
なぜそう考えるかについては、まず元増田をご覧いただきたい。
自分に自信のない人間は、基本的に周囲の様子を常にうかがっている。場にそぐわない行動をして排除の対象になるのではないかと、多かれ少なかれ怯えている。いわば、誰よりも「空気を読んで」周囲に気を遣って行動しているのはこうした人間だ。
このような人間(元増田に続き「非コミュ」と略す)が他人に「質問」や「返答」を行うときはどういうことになるか。非コミュは、言葉を口に出す前に頭の中で多くの計算をする。「この質問はタブーなのではないか」「この返答をすると場が白けるのではないか」そうしたテストを繰り返した挙句、ようやく言葉が口に出る。これだけのことを考え、多くの制約の中で会話をしているわけだから、会話のテンポには乗れないし、話の流れも不自然になる。
即ち、政治力が低い人間はそれだけで「コミュ力」の発露を妨げられるのである。政治力が低くてもコミュ力が高いなどという存在は机上の空論と言ってよい。
それに対し、リア充は「ノリ」だけが基準だから、人の繊細な部分に立ち入ろうとも会話を躊躇しない。その結果、こういう会話がなされる。
充「お前さあ、彼女いるの?wwww」
非「(なんでそんなことを親しくもないお前に教えないといかんのだ、ふざけんな、おっと、そんなことを口に出すとKYと思われる、ここは無難に)・・・別に」
充「お?wwwwwなに口ごもってんの?wwwwwさては彼女いるんだろ?」
非「(なんだよこいつ、人が答えたくないのがわからんのかよ、しつこいな)・・・いいや」
充「だったらなにもったいぶってんだよwwwwそれじゃあ休みの日とか何してんの?wwww」
非「(本当にしつこいやつだな、興味がない癖に聞くんじゃないよ)・・・図書館行って本読んだりとか」
充「うわっwwwwしょぼっwwwwださっwwwwおい見ろよ、こいつ本当に面白くない奴だぜー(以下略)」
被害妄想だと言わないでいただきたい。私を指してthir氏は「本当の非コミュを知らない」と言ったが、私はどこに行ってもこれと同じような目に遭ってきた。同氏は「恋人も出来るしバイトも出来る。クラスタの選別さえ行えば」と書くが、余りにも楽観的と言わざるを得ない。恐らくthir氏はよほど運が良く、良い人ばかりに巡り合っていたのであろう。どれほどクラスタを選んでも政治力の強弱によって「勝ち組」と「負け組」は作られるし、「負け組」はそれによってコミュニケーションの機会自体を奪われる。そして負け続けた私は今、「魔法使い」になろうとしている。
以上のごとく、私とthir氏の違いはひとえに現実認識だけだと言ってよい。その違いが端的に表れるのはここだ。
政治力しか持っていない人間は、合コンでもクラスでもサークルでも最終的には必ず孤立する運命にある。増田氏のいう「コミュ力」の持ち主は、単なるサークルクラッシャーだ。
これを現実と信じられるかキレイゴトだとしか思えないか、その環境が私と同氏の違いなのだろう。私自身の経験に基づいて述べるならば、「最終的な運命」というのが訪れるとしても、それは十年以上先のことである。学生時代というのはそれに比べれば余りに短いと言ってよい。人間関係における「勝ち組」「負け組」の序列はここで固定するのである。苦しんだ挙句に見つけた居心地がいい「クラスタ」は「負け組」という名のクラスタだからだ。
例えば、非コミュの典型である理系非モテ男というのを考えてみればよいが、彼にとってまともにコミュニケーションが通用する「クラスタ」を追い求めると、将来の進路は「研究者」「技術者」の一方になってしまい、いずれにしても理系非モテ男ばかりの世界である。他業界に比べ収入は安いし、「理系男」というのはそれだけでまともな人間ではなく珍獣のごとく扱われる。研究などに一生懸命になっていればバイトをする時間などほとんどないことは言うまでもないから、「恋人も出来るしバイトも出来る。クラスタの選別さえ行えば」という言葉を信じる余地など残念ながらないのである。
私は気心の知れた後輩たちにはいつも言っている。「人間関係は修羅場である、狩るか狩られるかだ」「人と理解し合えるなどと思うな、そんなのは例外だ」「善意などというものを信じると俺のような負け組になるぞ」と。しかし残念なことに誰も耳を傾けてくれない。そして彼らは見事に私の後を追い、非モテ非コミュの道をついてくるのである。頼むからやめてくれと言っているのに。
同じことを私より若い非コミュ諸氏にも申し上げたい。「コミュ力とは気遣いだ」「気遣いが出来れば恋人はできる」そんなものは嘘だ。信じたいものだけがすがりつきたい幻想だ。そんなものを信じられるのは余程運がいい人間か、現実を見たくない人間か、あるいは自己欺瞞に長けた人間だけだろう。