はてなキーワード: 涼宮ハルヒの憂鬱とは
何を読んだのかを書くんだ!(anond:20070424113931)と言われてしまったのでちょっと晒してみよう。
anond:20070424113931で名前が出てた人も一部読んだよ! ちなみに読んだ順。
総評:やっぱり「フライライトノベル」と「ヘビーライトノベル」は、例えばレーベルとかで分類して欲しい! でも先の人が「ライト」と書いてた谷川流の小説に読み辛さを感じたり、所詮は好みでもあるのかなとも。あとやっぱりイラスト恥ずかしい。カバーは掛けてるけど挿絵はビビる。電車の隣の人もビビる。
ちなみに普段の読書傾向は幅広くSFや海外サスペンス、軽く西洋系歴史物、ミステリーは古典、といった感じの男性がお届けしました。
あまりの反響に腰をすえて色々なご意見にお答えしなければと思いつつ、議論の焦点がぼやけているためにアニメやらイラストやら消費形態やらいろんなものの系譜を頭の中で整理していたらとてもじゃないけどすぐ書ける様な話でなくなってしまったので、脊髄反射で思ったことだけ書き記しておきます。
本文のクオリティは保証しないので、君はこのエントリを読んでもいいし、読まなくてもいい。
さて、元エントリ「なぜ作画の評価は割れるのか?」では、あえて“脚本・演出”の評価と“作画”の評価を切り離しています。これは、最近みられる“作画崩壊”に対するネット上のアニメファンの反応における問題点を明確にしたかったからです。
『グレンラガン』#4は脚本がダメだったから叩かれているのに、小林作画を擁護しているのは検討違い。本当にグレン観てるの?という批判については、上記の理由より「いやそんなこと申されましても…」としかいえません。
ちなみに、今回シナリオにも小林治の手が入っていますが、自分としては小林演出と、氏の描く女子の可愛い表情、仕草は大好物ですので、ふつうに楽しめてしまいました。
ゆえに「ふつうのアニメファンには見向きもされない」と『BECK』を評された増田様におかれましては、「じゃあふつうのアニメファンって何を観てるんだ?!」と激しく抗議申し上げたい。
冗談はさておき『グレンラガン』#4はあくまで元エントリを書くことになったキッカケに過ぎず、各人にとってそれが面白かったかどうかは、今回述べたかったことではありません。
「作画崩壊祭り」に限らず、「トレス祭り」「パクリ祭り」など、ネットでの炎上事例は枚挙に暇がありませんが、本来、非難されるべきでないものまで含めて祭りの対象となっている様に思われるケースが多々みられます。
祭りに参加している人には「わざと叩いてる」荒らしもいますが、中には、ブログのエントリやまとめサイトに煽られて、かなり真剣に批判的な書き込みをしている人がいる様に思います。
例として適切かどうかわかりませんが、『涼宮ハルヒの憂鬱』における「晴レ晴レユカイ」の振り付けはトレスである(パクリである)というエントリが一部で話題になったことがあります。このダンスについては、京アニの山本寛がアイドルユニットBerryz工房の大ファンであり、作画スタッフは絵コンテとともにPVを幾度となく見せられたというエピソードが公開されていて、“盗用”ではなく“オマージュ”と見るのが正しい受け取りかただと思うのですが、このエピソードを知らなかったとしても、ハルヒのEDとベリ工のPVから同じ動きのカットをならべて「トレスだ!」「パクリだ!」と言うのは、ちょっと違うんじゃないのといいたくなるわけです。
教養主義や世代論でこの問題を解決したいとは思いませんが、クリエイターや著作権に対する無知・無理解、あるいはリテラシの欠如が、こういった祭りを加速する要因のひとつだととらえると、元エントリのような教科書的にジジむさい説教も書かずにはいられないのです。
実際のところ、自分もアニメーターブーム直撃世代ではなく、その後のキャラクターデザイナー、イラストレーターが注目される時期に、アニメにはまっているので、キャラ萌え、ビジュアル重視という傾向にむしろ拍車をかける様な消費形態をとってきました。ゆえに、作画やアニメーターに関する知識においては半可通であるという負い目もあって、あえて増田で書いているわけですよ。出来ることならばタイムリープして自分に説教したい!
そんなこんなで、誰かを突き放したり、権威ぶったりするのではなく、消費する中で自分が獲得した視点とか面白ポイントを、Web2.0的に共有したり継承したりできればいいのになと思って頑張って書いてみたのをご理解いただけると増田うれしい。
あと、anond:20070424113453の増田さんはおそらくバランスのとれたアニメの観かたをできている人だと思います。「あー、おいしかった」というアニメの観かたの中には、知識の有無は関係なく「アニメーターの凄い仕事」に対する感動が含まれているハズだと思います。「作画崩壊祭り」の輪の中にいる人たちの言動が、あまりにも極端に「絵の美麗さ」と「キャラクターの一貫性」を非難の根拠としていることから、元エントリも極端な反論になっているので、実際バランスをもっている人にとっては、そんなことないよと反論されるものだと承知しています。
「さすが京アニ」を「さすが京アニ」にとどめず、ちゃんと理解することが、理想的な状況につながる突破点だと考えているのですが、それを記すには膨大なリソースが必要となるので、いつかまたどこかでやりたいなと思ってます。あるいは某アルファブロガーとか某アニメライターとかがやってくれないかと思います!!たりきほんがーん!!
キャラクターの一貫性に対する寛容・不寛容については、同人におけるキャラクター消費の盛況から、実際は若いファンほど寛容であるという意見があったのですが、公式キャラクターグッズのひとつとしてのアニメ、DVDという観点からより強力に一貫性が求められる傾向にあるという理解です。この議論につっこんで「データベース概念」や「キャラとキャラクター」という話を始めると、「批評うざい」といわれるので、あまり掘り下げることはしません。というかこれ以上、泥沼に足を突っ込みたくありません!
最後にひとつだけ、ガイナックスというスタジオは、少なからずその出自を“オタク”に持つ、あるいは持っていると思われることで、アニメオタクから支持されてきたはずなのに、なぜ今回のような事件を起こしてしまったのかが、残念に思えてなりません。
もっとも、エヴァの時点で庵野秀明がいろんなことを言っちゃってますが、そのフラストレーションのアウトプットとしてそれ相応の作品ができてくることで、むしろ根源的な部分で切っても切れないオタク性みたいなものを炙りだしていたので、自分としてはほほえましく思いました。
しかしながら、ガイナックスの内部スタッフがキモオタ氏ねというコメントを(意図的ではないにしろ)発表してしまい、そこに赤井孝美が乗っかってるというのは正直どうよと。いつからそんな風になっちゃったの!と。オタク目線をわすれないガイナックスというのはもはや幻想なのかもしれないと感慨にふける14の夜(嘘)でした。
簡単に言っちゃうと、「ufoテーブルが時代に適応できてなかった」の一言に尽きる。
かつて「住めば都のコスモス荘」や「ニニンがシノブ伝」で注目を集めたカリスマ制作会社だったufoが
「フタコイ」と「コヨーテ」の失敗を挽回すべく、今まさにカリスマとして称えられている京都アニメーションの大ヒット作
「涼宮ハルヒの憂鬱」を猛烈に意識し、参考にし、ufoの全力を持って作り上げたはずの「まなび」だったが
この「時代適応力」のなさですべてが空回りしたと言える。
この時代適応力のなさがufoに発現してしまったのは言うまでもなく、フタコイ1話放送時のインパクトと、
それ以降との差異による視聴者の落胆であり、同じくコヨーテ1話Bパートと、それ以降の視聴者の落胆によるものだ。
では「まなび」はどうであったか。
まず最初に、ロリオタ受けを狙ったつもりだったのに、ドン引きされたキャラクターデザインが1つ。
そして極め付けが、文化祭のメインイベントでライブをやってしまう空気の読めなさ。
ハルヒと同じ事をやった、でも痛々しいが、問題なのはufoが文化祭=ライブと言う発想しかなかった事。
ここが、近い時期に同じ文化祭ネタをやったコードギアスだと「巨大ピザ」なのである。
(「ハルヒ」自身が文化祭=ライブなのは原作がそうなんだから仕方ないとして)
細かい部分の脚本や構成の未熟さは突っ込んでも突っ込み切れないので省略するとして
一言で言っちゃえば「時代に適応できなくなったオッサンたち」が無理して作ったアニメなのである。
別に舞台がどこだろうと共感できるものは共感できるし、無理なものは無理。そもそも涼宮ハルヒの憂鬱は共感できたからウケたわけじゃないし。
何かと比べないと話が出来ないのであれば、かみちゅのほうが比較対象として余程マシ。
まなびストレート!がいまいちだったのは、後半、キャラクターの個性をまったく生かせなかったのと、説明不足で山場が山場に見えず、最後まで平坦にすーっと素通りしてしまったから。共感を得ることで支持を受けたいのだったら、もっと丁寧に書くべきだった。
このアニメが明らかに「涼宮ハルヒの憂鬱」の大ヒットを意識して作られたのはもう言うまでもないが、
結果としてアニオタの大部分に失笑を買ったまま終わる事になってしまった。これはなぜだろうか?
安定した作画、動きまくりの動画、見るものをひきつける演出。どれもがクオリティ高かったはずだ。
ではなぜ「まなびストレート」は失敗したのか。
アニメオタクの、「理想の学生生活像」へのかきむしる手法として「生徒会」を選んでしまった事が1つ。
生徒会なんてのは学年に数人しか居ない存在なので共感を得られるはずがない。
まず早々にここで失敗してしまった。
対して「ハルヒ」はそれが帰宅部でもない限りは誰もが経験する、部活動だった。しかも文化系。
その「生徒会」も、生徒の溜まり場として機能していた時は良かったが、文化祭復活に向けての活動をし始めた途端、
辛うじて貼り付けていたメッキが見る見るうちに剥がれ落ちていく。
最終回。みかんが「変わる事」を第一にいきなりアメリカ行きを決定。そして早々に「止めようかな」発言。
他のメンバーも何の根拠もなくそれを止め、何の根拠もなく思い直す。…なんだこれ。
そして1年5ヵ月後。たった1年5ヶ月で帰って来る。何が変われたんだろうか。
この失敗を経て、ufoテーブルは1年5ヶ月以内に帰ってくることが出来るだろうか?
「二次創作をする」という行為には、自分のコードにある作品を置き換えて表現しなおすことである創作物を所有したい、という願望が付いて回っているように思う。しかし、「二次創作」の存在が加速度級数的に増加すると、ある創作物の二次創作全体を自分の視野におさめることが不可能になる。つまり、各個人が所有欲を満たすために行った創作が、結果的には所有願望の達成を不可能にしてしまう、という帰結をもたらすということだ。
それでは、このような状況下でもある創作物への所有願望を諦めない場合、どのような行動の選択肢があるのだろう。
ひとつ思いつくのは、「どのようにすれば」ではなく、結果的に「そうなってしまう」ことを目指す、という方向性だろうか。ソクラテスに対するプラトンのように。ヘーゲルに対するマルクスのように。ある創造物を解釈する際に無視できない参照項となりうる自分というものを、重厚な解釈の呈示に加えて、政治的パフォーマンスも駆使して積極的に打ち立てる、という方向性。これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』における、谷川流と京都アニメーションないし角川エンタテインメントの関係に置き換えても良い。アニメ版『ハルヒ』ないしその副産物であるメディアミックス商品は、もはや「涼宮ハルヒ」シリーズを解釈するにあたって、谷川の手によるテクストとほぼ同等に扱われてしまっている。これらはどれも「結果としてそうなった」のであって、最初からそうなることを確信し、目指されたわけではないだろう。
何が参ったかというと、病気になってしまったのだ。いわゆる「うつ病」と呼ばれる病気に。
もともと4年前からパニック障害を発病し、気絶しては人に助けられる迷惑な奴だった。
うつ病という奴は人から「やる気」や「自信」を根こそぎ奪っていく。
そんな状態で、本家のダイアリーはとても更新できる状態じゃない。
最初は本家のダイアリーに書こうと思ったけど、自分がこのような状態になっていることを、いつも見ている人たちに知られたくないと、思いとどまった。
そんなわけで更新が止まりそうです…ってここに書いても仕方ないんだよな。
だけど、この病気になったことで一つだけわかったことがある。
この手の病気で知人友人を何人か失っているから、自分の中で「自殺」、それ自体が禁忌になっていた。それを肯定する村上春樹の小説は、その意味で憎んでいた。
でも実際、罹るとそういう問題ではなくなるんだな。
真面目に「死」について考え、今も考えている。
今は薬で抑えているから、こうして文章も書ける。しかし、今までのように物事を考えることができなくなってしまった。
人目をはばからず涙があふれてくるし、淋しくてたまらない。
薬で落ち着いても、気力はわかないし、何を見ても感想をいだけないし、興味がわかない。そんな状態で、仕事も休んで、ずっと寝ている。
たまにインターネットをする程度で、あとはぼんやりと天井を見ている。
ネットで見るのは精神疾患系のサイトで、おかげでいろいろな精神病に詳しくなった。見すぎるのはよくないと思ったけど、おそらく調べてしまうのは、まだ自分がうつ病であることを信じられないでいるからだ。単なる気のもちよう----そんな風に思いたくて仕方ないのだ。
でも、薬が切れたとたん、再び一筋の光も差さない深海に閉ざされてしまった気分になる。
話は変わるが、時間ができたせいもあって、今まで忙しくて見れなかったアニメを見て過ごした。アニメというのは頭を使わなくていいからちょうどいい。
『涼宮ハルヒの憂鬱』もとびとびでしか見ていなかったが、これを機会に全話見てしまった。
以前に見ていたころは、激しいアンチだったくせに、今は批判する気がちっとも起こらず素直に「丁寧なつくりのアニメだなぁ」と思ってしまう。
このことを人に話したら「いい人になった」とか言われてしまった。
もともとは攻撃的な性格だったのに、性格さえ変わってしまった気がする。
でも、ハルヒや長門が精神障害者に見えてしょうがない。超能力者とか言ってる古泉は、統合失調症に見えてしまう。
それはともかく一番面白かった回は『サムディ イン ザ レイン』だった。とても不思議な魅力のある回だと思った。キョンがストーブを買いにいくだけの話なのに、すごくいい話に思えた。
他にもいろいろアニメ見たのだが、見た先から忘れてしまって、見たかどうかさえ、覚えていなくてこりゃ相当だめだ、と思う。
今は見るのにも飽きてしまったけれど…
あと、自分は以前からこうした心の病について、サイトの日記にだらだら書く人が嫌いだった。
以前に、そのことをサイトに書いたら(当然、自分の持病については一切触れずに)、いろいろな反響があった。中にはそんなことを書く自分を冷たい人間だ、と思った人もいただろう。(というか実際いた)
でも書いたのは、過去には摂食障害も経験しているし、パニック障害もあるし、その苦しみを分かっていたからこそ、「死にたい」「欝だ」とか「この苦しみを分かってもらえますかね?」みたいに垂れ流す神経が理解できなかった。
自分が本当に苦しかったとき、その苦しみを人に伝える気には到底なれなかったし、他人には理解できるはずがないと思っていたし、今も当然そう思っている。
もしかしたら、それが今回の病気の発端になったのかもしれないが。
関係のない人をも巻き込んで同情や共感を得たいと思えるうちは、まだ大丈夫だとも思える。
いや、それでも本当に自殺してしまう人もいるから、一概にそれらの人々を批判することはよそう。
だけど、これ以上のことを書くことはないと思う。
ここまで書いたのも、たぶん、これが最初で最後だ。
書いてしまったのは、匿名であれ、誰かに伝えたかったのかもしれない。