それに気付けなかったのは、私の夢が医師になることだったから。
まあ、医師になる夢に反対する親ってそういないよね。
違和感を覚えたのは、1浪目のセンターで大コケして、別の学科を受験しようとしたときのことだった。
第2志望校までは国立医学部。第3志望校は、国立の理系、生物系の学科だった。
そこが第3志望だったことは母親も前から知ってるはずだった。話もしていたし、願書も取り寄せていた。
センターが終わった後になって、母親は「そこに行かせる金はない」と言い出した。
はじめて言った。
母親ははじめて見る無表情で「県内で、国家資格が取れる学部じゃないと受験させない」といった。
私も私で馬鹿だったと思う。
本当に馬鹿だった。
受験で疲れていたのもあったけど、まだそのときの私は『母親は正しいものだ』と盲信していた。
それに、未成年の子供にとって教育費をかけてもらったという恩は、あまりに重かった。
私は受け入れてしまった。
そこからは泥沼だ。
反論したところで話し合いにはならなかったし「◯◯ちゃんが間違ってるのよ」の一点張りで封じ込める人だった。
疲れるだけだから。
だけど私の夢を『応援』してくれていたから、私を尊重してくれたと勘違いしていた。
母は、私を応援していたわけじゃなかった。
ただ『こんなにすごい娘を育てた』という称号が欲しかっただけだった。
それに気づくのに、22年もかかった。