それは何故かと言えば生命の歴史の中で直接的な意味でも間接的な意味でも闘争によって自然淘汰の圧から生き延びてきたのが地球上に存在する全生命のデフォルトだからだ。
根本的に闘争をする存在でなければならないしその闘争に生き残らなければ現世まで続く生命種としてありえないからである。
生命としての活動をするの次ぐらいに生命の定義として闘争することは前提条件となっていることなのである。
そういった前提条件は深く我々の中に本能として影響を及ぼしている。
すなわち敵を見つけることとその敵を滅ぼすことを業として背負っているのが我々である。
我々人類は頭脳を発達させるというチートによって人類発生からしばらくすると「敵」をほぼ制圧してしまったのだ。
だが必要性がなくなったからといってすぐに闘争の本能が消えるわけではない。
我々は依然として豊富な闘争本能を消費するべく直接的な意味でも比喩的な意味でも闘争を求めるあまり、存在するわけもない敵を創造しその敵をぶち殺すべく今日も邁進するのである。
そういう状況であるからコミニティの敵のようなものが出現したときには嬉々として闘争へと馳せ参じるわけである。
これは昨今の国際情勢を見てもらえば容易に納得できることだと思う。
そして海外に目を向けなくても我々自身、いや私自身が常に人生における直接的あるいは間接的もしくは比喩的な闘争を求め続けているのは言うまでもない。
だからこそ。
闘うことは止めなければならない。
居もしない敵をつくりあげて闘争することはやめなければならない。
そしてチンチンを舐めてと言ったらすぐに舐めれる人間になって欲しい。