「医者にあなたは発達障害だと言われてほっとした」だとか「発達障害ではないと言われてしまった、つまり自分はただの○○(ネガティブな言葉が入る)だということではないか」というコメントを見て少し気になった
診断が出たところで、それはそれで医者からあなたはそういう人間なのですとお墨付きが出された訳だから自己評価については何も変わらないどころかいわゆる「完治」はしない為余計悪くなるのではないかと思うがそうではないらしい
何故なのだろうと少し考えてみた
おそらく「障害者であれば多少○○(上記のネガティブワード)であっても仕方ない、障害のせいであり本人に責任はない」という事なのだろうか
精神・発達障害者の欠点は全て障害のせい、健常者の欠点は全て自分のせい?
気難しい障害者はみな哀れな善人で気難しい健常者はみな愚かな悪人?
そんな0か1かのような単純な話ではないであろう、では精神・発達障害者の欠点はどこからが障害のせいでどこまでが自分の責任なんだ?
すべて根性でなんとかなる、障害だなんて甘えだと言うつもりはない
ただ、だからこそ、彼ら障害者に罪がないとすればどうやって健常者の罪を問えばよいのかと考えてしまう
「あいつは健常者のくせになんていい加減なやつだ」と思っていたらその後発達障害があると診断される(発覚する)可能性もある
そもそも性格や意思は脳から作られるもので、精神・発達障害者の性格上の欠点が脳のせいだとすれば健常者のそれはなんなのか
しかしあれは脳のせいだ、これも脳のせいだ、それでは人間に自由意志なんてものがないのではないか
では、誰が悪い人間なのか
そんなことを考えていたら一部で知的障害者の事が「天使」と呼ばれている理由がわかった気がする
良い点はすべて彼本来の性格によるものであり、悪い点はすべて障害(脳)のせいとすれば哀れな天使の出来上がりだ
自分以外の人間全てに対してそう考えられるようになれれば幸せだろうな、と思った少し後に、人に期待しないとはこういうことか、と気付いた