こんな夢を見た。
棋士の先手。棋士は盤面の右上隅に石を打つ。定石通りのスタートだ。
それに対し、コンピューターは小考し盤面の反対側に「銀」を置く。
周囲の誰もが対局を止めないのを知った棋士は諦めたような手付きで、
あるいは挑むような手付きで、盤面の反対側に「銀」を打つ。
しかし解説の羽生は(なぜ囲碁の解説が羽生なのか)残念そうに声を上げる。
「あー、これぇは悪手ぅの可能性ぇー、が、あり、ます。例えば、ここに角を打つような手があって(と大盤の中央に打つ)
まぁ飛車とかで受けて(と石と銀の間に飛車を打つ)簡単ではないんですが、
これはすでにコンピューターの技が決まっている可能性がありますねぇ。ええ」
そうなのだ。このゲームは「銀を使っていい囲碁」ではなく「将棋の駒を使っていい囲碁」だったのだ。
そのことに棋士らは気づいておらず、羽生とコンピューターだけがそれを知っていたのである。
という夢を見たのだが、もしかしたら初めて強いコンピューターと対局した棋士たちもこんな気持ちだったのではないか。
夢の通り俺は将棋党なので将棋の話をするが、コンピューター以前の人間同士では矢倉91手組(91手目まで定跡化されている)のように、指し手のルールがある程度決まっていた。
そこにコンピューターが現れ、それまで存在したあらゆる戦法を根こそぎにし、新たな戦法を創造していった。
それは、それまでのルールで将棋を極めた人たちにとっては「囲碁で銀を打っていいと思ったらさらに他の駒もありだった」に匹敵するものだったのではないかと思うのである。
だからこそ「コンピューター将棋は将棋とは別のゲーム」(byハッシー)というような発言も出てきてしまったのではないかと思える。
しかし、いま俺が(願わくば読者も)思っているように、その「別のゲーム」はいかにも面白そうで、結果を見てみたいという欲を喚起する。
それが前のゲームよりも面白いかはわからないが、とにかくある程度は面白そうに見える。
この面白さは果たして「ルールがある」ことによるものなのか、それとも「ルールが無い」ところにあるものなのか、
この「ルールに従ってルールを書き換える」楽しみ、とでもいうものはきっとプロの棋士だけのものじゃなく、
日常の例えばくだらない会話などにもにも溢れているのだと思う。
俺はそれを探していきたい。