2019-06-15

自称障害者と責めることについて

健常者ではない。

人並みに生まれられなかった。

普通にまれたかったし、普通感性普通思考回路普通脳みそだったらよかった。でも、違う。

お前はおかしい、と言われてきたし、自分おかしいと自分でも思った。

障害者というレッテル自分に貼るのは決して楽しい事ではない。でも、健常者だと思い込んで苦しむよりは、幾分マシだと思った。自分がそう生まれいたことを認め、受け入れ生きることが生きづらさの解消だろうと思った。

他人障害者理解されれば、幾分生きやすくなる。健常者じゃありえないような失敗をしても、障害者からと納得してもらえる。失敗に納得してもらえないことはとても辛いものだ。自分でもなんでこんな失敗をするのかわからないのに、人に、なぜ失敗するのか、理解できない、おかしい、なぜ、なぜ、と言われてもどうにもできないからだ。健常者は、理解できないものに対して不寛容だ。だが、障害者から仕方ない、という1つの理由差し出せば、一応納得はしてくれる。

自分の苦手を理解して貰い、得意を理解して貰えれば、こんな人間でも役に立つ筈だ。そう信じたい。だから障害者だと名乗る。

納得してくれる人もいる、が、してくれない人もいる。

全然普通じゃん、障害者なわけない、甘え、との調子障害者を名乗るのを許してくれない人だ。

自分もかつて、自分に対してそう思っていた。そりゃ、少しおかしいとは言っても、成績は普通だし、短期間なら普通を取り繕うこともできるようになったし、特別支援学級レベルではない。それに、今までずっと健常者だったんだから障害者であることなんか認めたくない。やればできる筈、甘えているのだ。やればできる、みんなできているのだから。こうした考えを何年も持ちながら苦しんでいた。自分を疑うことは辛いことだ。

結局、健常者を貫くことはできなかったし、認めなければ生きていけなかった。

から障害者と名乗ることを許してもらえない時、再び昔と同じ問いを自分にぶつけなければならなくなるのが辛い。本当は健常者なんじゃないか、というのは希望の光のように思えるし、光が差し込むとついすがりたくなる。しかし、それにすがって生きてきた20年がどれほど辛かったことか。「本当は健常者なのではないか?」と問われるのは、切れると分かりきった細い蜘蛛の糸を垂らされるようなものだ。ついすがってしまうが、切れた時はより深い絶望に叩き落される。

健常者の方には、我々を理解するのはきっと無理だ。我々だって健常者を理解できないのだから障害者と名乗る普通っぽい人に、そんな筈はないと詰め寄るのはやめてほしい。理解できないのは仕方ない。理解できないのなら、そうなんだ障害者なんだね、はいはい。で流して欲しい。医者だってそう言ってるんだから、そうなんだよ。それでいいじゃないか

健常者に居場所のない我々が、障害者側に立つことぐらい許してくれ。どうせ、お前らは健常者と名乗ったら名乗ったで、あいつはおかしい、きちがいだ、と言うのだろ。目障りかもしれないが、どうか放っておいてくれ。違う人がいる、それを認めるのはそんなに難しことなのか?

お願いだから場所を奪わないでくれ。

  • お願いとかご説明したら理解してくれるという考え方が根本的におかしいんだよ 健常者が配慮するとしたらそれは暴走老人の車に吹っ飛ばされて松葉づえになった時しかない

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