2017-07-26

コメント欄に押し寄せるレフェリーたち

ある記事に対して正しいか否かを議論することがいつも適切だろうか。

少し前にこんな記事東洋経済オンラインに載った。

「男はみんな「元カノの成分」でできている」http://toyokeizai.net/articles/-/181141

この記事の内容は、作家である筆者が、自身人生に影響を与えた元彼女との思い出を語るものである

コメント欄では当てはまる、当てはまらない、キモイ、一緒にするななど議論を呼んでいる。

さて、この記事は本当に「男はみんな「元カノの成分」でできている」と主張する文章だろうか。

言及しているのは以下の箇所である

>よく男は未練たらしいとか、元カノはずっと自分のことを好きだと思っているんじゃない? とか言われる。でも言わせてほしい。それは違うのだ。

>男は昔の恋人を「忘れない」のではない。男は昔の恋人で「できている」のだ。

(中略)

>だから男が昔の恋人のことを、ついこの間のことのように生々しく思い出したとしても、

>「それがあなたの成分なのね」と笑って(笑わなくてもいいですが)許してほしい。

文末の許してほしいという言い回しからすれば、ちょっと後ろめたさを感じつつも

元カノ(あるいは女性たち)に自分気持ちを訴えているという程度だろう。

そもそもこの文章ほとんど筆者個人の話しかないし、明らかに男の性を主張するものではない。

まり、文の焦点が違うのだ。

ところがこの記事コメント欄は、男が元カノの成分でできているかどうか、その成否判定で溢れている。

別に自分が当てはまらないとコメントすることがダメではない。しかし野暮なのだ

例えば「向上心のない者はばかだ」という文章はとてもインパクトがあるが、その正しさについて議論するのは焦点がズレている。

ニュース論文であれば正しさが第一観点でもよいだろう。

だが正しさが肝心でないものまでその議論をすべきだろうか。

はいかなる場面でも正しさの議論を繰り広げてしまレフェリーのような人たちを、野暮だと思うのである

  • 小田嶋隆っぽい増田だなw ほとんどのはてなーは元の記事なんてちゃんと読んでない タイトルから記事の内容を都合よく推測、推測した内容に合わせて自分語りしたいだけだ 記事の著...

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