焦った俺はエミに電話した。もう10年以上前に別れた元彼女だ。
遠方に住んでてシングルマザーのエミは、高校生だった頃のままの鼻にかかった声でおー増田ーゲンキー?と、小生意気な話し方で近況を話してくれた。内容は頭に入ってこなかったが、当時のままの甘美さはより絶望を強くさせた。
5日後に訪れる死はついに伝えられず、電話を切った。窓の外は雨だ。
実家に帰ると歓迎するでもなく迎えられ、温泉に行く。祖父母が元気だった頃によく家族で行っていた温泉街だ。
大正ロマン風の橋を歩き渡りながら、弟に余命のことをつぶやく。
んなことあるわけねえべ。マジなん?
んだ。しゃーねべほいなぐ言わったんだおん。死ぬわ俺。
弟は兄に伝える。
なして母ちゃんさ言わねのや。
その配慮のなさに怒りを覚える。
おおっぴらに悲しんで欲しいわけじゃない。実家のイベントにして欲しいわけじゃない。いつも通りでいいのだ。
宴会が始まる。おじや兄嫁らとビールを注ぎ交わす。が、食事は喉を通らない。この食事が俺の血肉となることはないのだ。怖い。死ぬのが怖い。
酔いが回り、窓の下を見ると俺とサユリが雨の中一つの傘を差して小川の散策路を歩いている。何も考えていないようでいて敏感なサユリは、俺の変化に気付いていた。
どしたん。
なんも。
好きな人でもできた?
うん。
それでいいや。俺がもうすぐ死ぬことを伝えて特別視されるよりは、このまま別れた方が傷つけずに済む。
種々のアカウントを閉じたあと、この硯を誰に託そうかと考え始めたところではたと気付く。
誰にもあげたくない。この筆も文鎮も、それぞれ思い出がある。奪われたくない。何も奪われたくない。怖い。死ぬのが怖い。
おかしい。呼吸が苦しい。腕が動かない。宣告された余命はまだ残っているはずだろ。もう死ぬのかよ。嫌だ。怖い。何がメメントモリだ。そんなもん寿命有り余るやつらの戯れ言だ。くそ、なんで年上の親父が生きてて俺が死ぬのや。ふざけんな。怖い。くそ。惨めだ。怖い。