山手線のホームドアの手前、混雑する車内を前にイアフォンを鞄の中から探していた。一度入ると取り出すのが大変だから…そう、時間はかからなかったと思う。ただ手こずっただけだ。
やっとお気に入りを鞄の奥底から引っ張り上げたとき、山手線は目の前になかった。忽然と消えた!驚きに周りを見渡せば、遥か右に消えていく面影。
鞄を探すちょっとした時間がどれくらいだったか。山手線が目の前にあって、山手線がいなくなって、その始まりと終わりは覚えているのに間が抜けていく。今日、退職手続きをする会社も思えばそんな感じだった。
昨日、今は違う部署にいるお世話になった上司にメールを書きながら、通り一片の定型句じゃもったいないとエピソードを思い出そうとした。だが、うまく説明できない。一番お世話になり、また一度は障害の尻拭いを客先にしていただいたはずの仕事の話が出てこない。
本人はまず覚えていないだろう日常会話……春野にあるホビーショップについて店名と外観が結びつかなくて、上司が幼少の頃に遊んだお店、今もありますよと切り出せなかったこととか、そんな軽い悔恨ばかり思い出す。
自分の中で十年間という大学と高校を合わせたよりも長い入社時間がすでに畳み込みを始めているのだと気づいた。
思い出の整理はしがらみに絡め取られたまま、客先に挨拶して周る言葉すら、まだ二、三考えているだけだ。だが、生理的な記憶は既に取捨選択を行っていたのだろう。気付かなかっただけで既に廃棄処分を受けていたのだ。重要書類もそうじゃないのも本人の意志確認なしに。