私はこの病気で多くの人々に迷惑をかけながら生きてきた。働けずに2年近く実家に引きこもっていたし、働いたら働いたですぐに調子を崩して休み休みの出勤になり、仕事は1年前後しか続かない。仕事を転々としすぎて、今は仕事自体が見つからない。福祉のお世話になりながら仕事を探している。
それでも生きている。
自殺は何度となく考えた。特に、お前など死ねという幻聴が聞こえている間は生きているのが辛かった。
それでも生きている。
私の生を否定する人はいるだろう。無駄金使いだと思う人はいるだろう。
しかしそう思われても生きていく。
誰に望まれることなくとも、死なないだけだったとしても、生き延びてきた。
生きていることには自分の意志すら関係ないことは自分の人生で証明してきた。誰かにいらない人間だと思われても関係ない。ましてや、図々しく思われることなど。
けれども、私はそれでも社会と繋がっていて、社会に生かされていることもまた事実だと思う。そのことには感謝をしている。
だが、卑屈にはならない。
私が卑屈に生きるということは、巡り巡って、誰かを卑屈にさせてしまうということだ。その卑屈は巡り巡って、誰かの生を否定する。
その誰かは私かもしれない。あなたかもしれない。あなたの大切な誰かかもしれない。
そして、誰かに図々しく生きているなどとは思わない。それはその誰かが卑屈であるべきだという発想から出てくるものだ。
誰かが卑屈に生きることもまた、誰かの生を否定することにつながる。
平等が有難い世の中だけれど、生きているということだけは誰にとっても平等であってほしい。そしてその平等をなるべく多くの人に理解してほしい。
卑屈に生きるべき人などいない。図々しく生きている人などいない。