2016-07-27

親族障害者がいる。

重度の自閉症で、会話はもちろんできないし、年齢的には中学生だが平仮名を読むことも書くこともできない。

わめく、走る、泣く、叩く。主な表現はこのくらいだ。

障害者は不幸しか作ることができない。

障害者人間ではなく生き物だ。

犯人思想は酷く偏ってるし、あんな事を平気で出来るなんて彼こそ人間ではないと思う。

犯人は重複障害者、と表現しているが、何か特定障害を表しているのかもしれない。

ただ、「犯人の言っていることは100%おかしい」と言い切れない自分もいる。

自閉症親族と過ごしていると、この子は何のために生まれたのだろうかと思うことがある。

そもそも、この子幸せなのだろうかと思う。

人は勝手に生を授かるものなので、生まれ理由なんて誰にもないと言う人もいるだろう。

幸せを求めることすら間違っていると言われるかもしれない。

それでも、多くの人は日本語を使って会話する。

側にいる人が幸せだと表現している姿を見て、私はとても安心する。

表情や態度で伝わることもあるけれど、共通言語を使って意思疎通することで伝わる事は多い。

人が心から発する「ありがとう」は声色が全然違うし、

大切な人から聞く「嬉しい。幸せ。」という言葉だけで幸せになったりする。

多かれ少なかれみんな、放たれた言葉によって心揺さぶられた事はあるんじゃないかな。

自閉症親族共通言語を使えない。

どんなに表情豊かになっても、話せないという事実はとても悲しい。

分かってあげられることがとても少ないのは、側にいる親としてもとても悲しいはずだ。

果たして本人はどうなんだろうか。

何が楽しくて、何に悲しむんだろうか。

楽しいねって話せないもどかしさを感じたりするんだろうか。

私は親族から常に側にいる訳ではないし、お盆年末年始ぐらいしか会わない。

一緒に過ごす時間が少ないか理解できなくて苦しいのかもしれない。

それでも、理解しあえる手段が少ない中でずっと関係を続けていくのって

果たしてどう感じるんだろうね。

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