2016-01-14

肉を切る

切れ味の悪くなった包丁は、鈍色に錆びた刀身を光らせている。消費期限が切れかかった、特価品の鶏もも肉208gを、発泡スチロールから取り出してやる。左手必死に肉を押さえつけ、皮を断ち切ろうとするが、ぬめってしまってなかなか切れない。手が、脂と消毒された獣の臭いに満ちる。洗い流そうと、蛇口をひねってみたところ、水が出てこない。一拍おいてやっと、一昨日辺りから水道を止められていたことを思い出す。軽く舌打ちし、包丁を強く抑えつけながら貧乏揺すりでもするように前後に揺らす。十数回揺らしたところで、右腕の筋が悲鳴を上げるので、その貧弱な右腕をだらんと脱力させる。骨と皮ばかりの僕に比べて、この鶏はよく肥えてやがる。手についた脂に、改めて嫌悪感を覚える。この鶏は、恐らくブラジルからやってきたのであろう。そして、望むか望まぬかに関わらず、飼料という飼料をぶち込まれ、首を絞められ、捌かれ、凍らされ、日本へと運ばれてきたのだろう。それが良いことか悪いことか、僕にはわからない。

中学の頃、養鶏場職場体験に行ったことがある。養鶏場のおじさんは最終日に、愛情こめて育てたはずの鶏を絞めて、鶏刺しを振る舞ってくれた。仕事はいえ、自分の愛したものを殺す、そんな不自然なことがあっていいのだろうか。と若いころの自分は疑問を抱いていたように記憶している。おじさんは、軽々と鶏を持ち上げ、首に手をやる。よく懐いているからだろうか、それとも一種の諦念だろうか、鶏は全く抵抗しない。鶏が痛がらないような具合で、おじさんはすっと力を込める。鶏の首は、呆気無いほど簡単に折れた。それは、自然ものだった。それは、愛情と呼ぶに値するものだった。

そんなことを思い出しながら、ブラジルからはるばるやってきたであろう鶏もも肉と虚しい格闘を続けていると、父親から電話があった。あまりに呼び出し音がしつこいので、ベトベトの手で携帯を手に取る。「俺はまだ諦めていない、お前が復学できることを信じている、金の心配もするな」などと言うので、すぐさま切り、切りかけの鶏もも肉をぼおっと見やっていると、ふと

「生きるというのは、どうにもならないものだなあ」

という心持ちがしてきて、それはすぐさま、抑えつけられないほどに膨れ上がってしまって、いつしか、その切れ味の悪い包丁自分の首を掻っ切ってやりたい、という衝動へと変わっていった。その思いつきは自分でも驚くものであったが、しかし全く自然ものでもあった。その思いつきは――その思いつきこそ――優しさであった。

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