僕はサイコパスだ。
小学二年生くらいだったか、小さなサイコパスの最初のターゲットは仔猫だった。
公園の片隅にいた仔猫を落ちていた鉄パイプで殴った。何度も何度も。
片目は潰れ、頭に重篤な傷を負いながらも、仔猫は生きていた。
そのうち友達が来たので、「そこに倒れてた」と嘘を吐き、みんなで仔猫を保護した。
近くに大人がいたのでちょっとした騒ぎになった。
僕は犯人と名乗らず、あくまで発見者の一人として一緒に仔猫の手当てした。
翌日、仔猫は公園で死んでいた。僕は疑われることもなく、そのままだった。
二番目のターゲットは雀だった。
巣から落ちたばかりの子供だったのか、飛べずに道端を走り回っていた。
僕は雀を追いかけ、側溝へ追い落とし、逃げられなくなったところへ大きな石を落とした。
二三回繰り返したら雀は動かなくなった。死骸には唾を吐き小便をかけた。
苦しそうに顔を歪ませるのを見るのが好きだったが、これはさすがに親の耳にも入り、叱られ止めさせられた。
この後もちょっとした虫などは殺し続けていたが、さすがに小動物は狙わなくなった。
僕は嘘吐きな性分で、同性からはよく苛められた。
同性はみな野蛮だと思い、僕は異性とばかり遊ぶようになった。
ある夏、僕は苛めていたクラスメイトを殺そうと考えた。
事故を装い高所から文鎮などを落として仕留めようと思ったが、実行はしなかった。
完遂する自信がなかったからだ。
そのうち苛めの対象は他の児童に移り、僕は人殺しにならずに済んだ。
ちょうどその頃、今話題の神戸連続殺傷事件があったのだと思う。
その後も何かと殺人衝動が沸くことがあったが、実行には移さないまま季節は過ぎていった。
僕はおそらくサイコパスだ。
でも、僕は人を殺すことはなかった。
今でもその衝動と妄想には悩まされているが、おそらく殺人者にはならないだろう。
では、実際に人を殺すことはなかったサイコパスな僕と、実際に人を殺してしまったサイコパスな犯罪者とではどう違うのだろうか。
その答えは、きっと『あの本』の中にあると思う。
同じ性質を持った僕にとって、『あの本』は読むに値する一冊である。
入荷されるのが待ち遠しい。
中身がどれだけグチャグチャでも、実際にやらなければお前はマトモだ。
書いてあることが釣りでないという前提で、お前と社会の安寧を祈って書く。 サイコパスは前頭葉の異常により、恐怖や倫理が働かない病気だと段々分かってきている。 もちろんまだ治...
なれなかったってことはなりたいんだろ? 人間生きてる間は諦める必要はないぞ 今からでも全然遅くない
自分の読み返したら意外と伸びててびっくりした。 初日に伸びなかったらもう伸びないものと思ってたけど、三日経っていきなり伸びるなんてことあるんだねぇ。