2015-05-12

清純派

社会には、「清純派です。」という考えで自分肯定する人(俺もそうだった)がいる。

どういうものかというと、自分は汚れていなくて、

周りには汚い考え、行いなどがたくさんあり、

そうしたもの侮蔑して、自分特別視し、ちょっとした優越感に浸るというものである。

特にこの考えは、異性と喋ったことがない、接したことがない男子によく見られる。

この文章では(俺は女性ではないので異性の気持ちは測り兼ねる)ので、男性についてのみ述べようと思う。

俺はそのような考えに陥ってしまうのには、いくつか理由があると思う。

一つ目としては、周囲とのズレから起こるコンプレックスである。

それは、自己防衛と言い換えても良い。

例えば、自分を例に挙げるならば、

俺はどのようなプロセスを経てそのような考えに至ったかと言うと、

俺は小学生の頃、異性と接したことが皆無だった。

しかし、心の奥底では女性と接したいといつも思いながら、すまし顔をしていた。

だが、人見知りで重度のコミュ障だった俺はその本音を隠してまるで、

自分は異性には興味ないですよ。別に話せなくても悲しくありませんよ。」

自分に壁を作って自分を守っていたのである。

これは完全に、コンプレックスであるし、自己防衛である。

恐らくこの文章を綴っている俺だけではなく、かなりの割合の「清純派でした。」、もしくは今もなおそうである人は、このような過程を経たのではないのかと思う。

二つ目は、自己陶酔である。いわゆるナルシシズムと言われるものだ。

恐らくこれも、何らかの精神的なストレスを受けそれに対する自己防衛として発現したものなのではないかと思う。

何故、「清純派」が自己陶酔と結び付くのかと言うと、 それは清く正しい自分理想への憧れだからである。

その理想への処女信仰じみたものは どういったプロセスで形成されるかと言うと、

自分はこうでなければならない。」

という強い思い込みによって、少しずつ周りからズレていって、だんだんと引っ込みがつかなくなり、

最終的には

「この自分が正しいのだ。自分を好きでいていいのだ。」

という結論に至り、ストレスを受ける度に周囲と著しくズレている為に、周りからのバッシングが激しくなる場合がある。

俺の場合はそうであった。

現時点で考えつく限りにおいては、この二つが主要因だと思われる。

結論としては、いわゆる「清純派」から目を覚まさない限り、

多少なりとも周りとの軋轢が生じるかもしれないが、自分を真に好きであればそれは本人の自由なのではないかと思った。

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