2015-05-02

一週間にふたりも友人を自殺で失った。

2月。同じグループで仲良しだった同級生自殺して、週末に葬式だった。ぼくらはよく7人の仲間で、またはそれぞれの妻や子供と、みんなで一緒に遊んでいた。20代も終わる頃のぼくらは、やったこともない、仲間にやり方を教わるわけにもいかない慣れない葬式の受付で四苦八苦していた。そりゃあそうだよな、20代で仲間内葬式なんか普通はやらないんだ。

それは突然だった。ある火曜の夜、「あいつが失踪したらしい」という知らせがいつものLINEグループに入った。奥さんや最後に話したぼくらの仲間も知っている友人に不穏なLINEが入っていたとのことで、これはただごとではないという話になった。

正直もうずっと見つからなくてもいいから、どこかで元気に生きて欲しいと思った。見つかってしまったら、それはもう終わりの合図のような気がしたからだ。翌日、水曜の夜にはそれぞれの心配はあっというまに落胆に変わった。ご遺体となった友人が地元近くの街で見つかったとのことだった。

木曜のうちにはグループの何人かは顔を見にいった。ぼくは金曜の夜、仕事を早めに終わらせて新幹線地元へ帰り、友人の家に向かった。15年ぶりくらいだったので、家を見つけるのも一苦労だった。奥さんも同級生だったし、別の友人が同じように挨拶にきていた。顔を見て、それでも実感がなくて、そのまま帰宅して、先に挙げた同級生グループの仲間とデニーズで朝までしゃべった。なんで死んじゃったんだろう、話題はそれだけだ。

土曜。夕方から通夜。ぼくらはもちろん、誰も葬式の受付なんかやったことないので、みんな泣くのをこらえながらそれぞれの仕事をこなしていた。夜になりぼくらは解散し、ぼくはひとり都内一人暮らしの部屋に帰った。以前の仕事の同期だった1月からLINE既読にならない友人に電話をした。「もう使われていない番号」とのことだった。

嫌な予感を胸に抱えつつ、その同期と特に仲が良かった共通の友人に電話すると、実は同期の友人は1月自殺してしまったとのことだった。一週間にふたりも友人を自殺で失ったというわけだ。自分の中でそれなりに形作られていた死生観っぽい何かが、まったく無くなってしまった。意味をなさなものになってしまった。

何かを言いたいわけでも伝えたいわけでもない。吐き出すのにちょうどいいブログサービスがなくて、そこに増田があったからちょうどよかっただけだ。

  • 共通の友人に自分から聞くまで教えてもらえなかったっていうのを見ると、友人の定義が自分とは違うのだなと思う。

  • 知人が連続して死ぬと死に対してドライになるのは良く分かる あと、人間って割と間接的に悪意なく犯罪ではない形で人を殺してるのではないかなというのも分かる で、簡単に死ぬこと...

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