自分に自信のない人間の自意識とは、大方自己に批判的である。自意識というのは自分が思う他人から見た自分、というのが恐らく本質だ。自分が自分を認めていない(自尊心が育っていない)のに自分が想定する他人が自分をすごいと思うわけがない。そして、この自分が想定する他人(自意識)には嘘がつけないのも大きな問題だ。本当の他人には嘘や見栄で自分を飾り立てる事が出来るが、自意識という他人にはそんなことはできない。むしろ、「お前が見栄張ってることがバレたら周りの人間はどれだけお前に失望するのか」と己を責め立ててくるはずだ。この厄介な自意識をどうにかするにはどうしたらいいのか?
方法はたった一つで、自意識がどれだけ自分を責め立てて来ようとも挫けない心を持つことだ。そのためには、自分に自信を持つのが手っ取り早い。自分に自信を持つには、自分で何かをなすことだ。ただし、何かをなすには失敗が付き物であり、批判的な自意識はちょっとの失敗でも執拗にあげつらい、「だからお前には価値がない」と脅迫的に囁いてくる。それを乗り越えるにしても、他人が認めてくれるくらいの何かをなすことがいかに難しいことか。
これに耐えられない弱い人間は、もっと悪い道へ進む。自分の価値を他人に求めるようになるのだ。端的に言うと、「すごいやつと知り合いの俺すげえ」。意味不明である。すごいのはあくまでその知り合いであり、その人と知り合いだったからって自分に何かの価値が生まれるわけではない。ただ、自分に対してなんら誇るところを持たず、自己の誇りを勝ち取ることにも負けた人間は、すごい人とコネがある自分、というところにしか自分の価値を見出せないのだ。
こうすることで一応、自虐的な自意識の責め立てはなりを潜める。時折思い出したかのように「価値があるのはあいつでお前じゃない」と囁いてくるが、自虐的な自意識の武器はそれだけになったのだ。それに対してあーあーきこえないをしていれば、自らの心は安泰である。しかし、論外な方法だ。
最後に、この自意識を本当にどうにかするには、他人に自己の評価を求めることを止めることしか手段がない。それが批判的な自意識が責め立てて来ても挫けない心を持つ、本当の方法だ。
自意識という自分の中の他人の目が求めるままに自己に価値を求めたところで、自意識の要求は止まらないだろう。どこまでも自意識が求めるまま自己を高める戦いを続けられるほど強い人が一体どれだけいるのか。そんな超人になるべく努力するのではなく、自分に価値がなかろうとなんだろうと自分は自分なのだ、と思えるようになるのが一番である。