働き方を巡るいろんな発言を見てて以前どこかで書いたことを思い出したので。
その集落には、90歳くらいのおばあさんとその娘さんらしき、これまた70歳くらいのおばあさんが経営する
小さな薬屋さんがあった。
私はその店の前を通って駅に出ていた。
ある中学生の少年が、朝、学校へ行く前にその薬屋さんの外で自転車を降りて、表から閉まっている店のシャッターを上げて、再び自転車にまたがって去っていく。
帰り、学校で部活でもしているんだろうか、6時ごろにもう一度この店の前で自転車を降り、外から棒を使ってシャッターを下ろして、帰っていく。
朝晩のそういう風景を何度かみたことがあり、一体これは何だろうと思っていた。
あるとき、その薬屋さんの近くの駄菓子屋さんでご近所さん同士が喋っているのを聞いてようやく意味が分かった。
高齢の親子が営む薬屋さんは近所で唯一の薬取扱店で集落では重宝されていたのだが、
そろそろ閉店しようと思うという相談が持ちかけられた。
理由は「シャッターを開けたり閉めたりすることが体力的に出来なくなったから」。
それを聞いたご近所の人が「それなら、うちの孫に朝晩シャッターの開け閉めだけのアルバイトをさせてくれないか?
孫はちょうどお小遣いを欲しがっていたところだから、その駄賃はわたしが出してもいい。一軒しかないこの店がなくなるのは不便で困る」と。
そういうわけだったのか。
田舎なのでシャッターに鍵もつけていないのだろう、少年は朝晩のシャッター上げ下ろしだけを手伝っていたのだった。
シャッターのあげおろしができなくなったんなら、誰かが手伝うわ、それでどうにか店を続けていけるなら続けて頂戴よ、
そういう話だったようだ。
その店はわたしもたまに利用していた。
売り方も買い方も独特。
例えば「バファリン、ください」というと、
90歳くらいのおばあちゃんが「はぁ、どれですかな?」と聞くので、わたしは「これです」とガラスケースから指を指す。
「これですか?」「はい、そうです」
少しお耳が遠いようで、商品名を早口でいうと分かりづらいようだ。
希望の商品を取り出してくれたおばあちゃんは、「これ、いくらになってますかな?」と買いに来たわたしに聞く。
バファリンには、大きく油性マジックで「930円」などと書かれてある。
眼が遠くなったおばあちゃんに値段がわかるようにこうしてあるのだろう。
店の奥ではもう一人の70歳くらいのおばあちゃんがこたつの前に積み上げた商品を手にとってなにやら書いているのが遠くに見えた。
「930円って書いてありますけど」というと
「はあ、じゃあ930円です」という。
で、1000円札を出すと「おつりは幾らですかな?」と聞かれ
「70円です」というと、
「はい、おつり70円です。合ってるか見て下さいな」と言われるので
わたしがその場で釣銭を数えて
こういうやりとりを実際にしていた。
けれど、100%完璧にできなくても、助けてもらいながらなんとか仕事を続けられる、というのは
とても大事なことじゃないかと思う。
様々な障害のある人の就労の機会のことが議論される。
わたしたちは何事にも完璧さや合理性、スピード、質の高い接客など、多くを求めがち。
でも、100%完璧なことができなくても、なんとかなる部分はもっとあるんじゃないかと思う。
わたしはこの田舎には5年間近く暮らしたが、ある年のの寒い冬に前を通りかかると、
お二人のうちのどちらの方が亡くなられたのか分からなかったが、
その後その店のシャッターは上がらなかった。
ほどなくして私はそこから転居してしまい、この出来事もすっかり忘れてしまっていたのだが、
数年まえに20年ぶりくらいにそこを通りかかる機会があり、今ではタイムズに代わっている元薬屋さんを見て
懐かしくこのことを思い出した。