2011-04-03

確率」よ、おまえはもう要らない。

放射線量と健康被害リスクの「確率」。

地震津波テロの発生「確率」、バックアップの冗長性、安全率で原発の安全性の議論。

一体「確率」ってなんだ?「確率」で行動を決定してよいのか?

自動車に乗るのは平気でも、原発は勘弁という人がいる。

タバコ吸っても、それよりガンリスクが低いとされる量の放射線浴びるのは嫌だと言う人がいる。

自動車に乗るのは気にならないが、飛行機に乗るのは(落ちるかもしれないから)恐いという人もいる。

確率論的には、自動車に乗るほうが死に至るリスクが高いだろう。

しかし、これは人間の行動心理であるので、こういう人を笑ってはならない。

囚人のジレンマのように、実際起きることは、こういう泥臭い人間心理で動いたりする。たとえば経済

宝くじに当たるのは、交通事故に遭うより確率が低いといわれるが、

大勢の人は、それでも宝くじを買う。そして宝くじに当たる人はいる。

しか交通事故に遭うこともなく、宝くじに当たり、1億円を手にする人も大勢いる。

今回、原発事故が起きる「確率」は低かったというかもしれないが、実際起きた。

実際起きたことの「確率」を議論してもはじまらない。

今回の原発は、おそらく、起きる「確率」が低かったことが、実際に起きてしまったのだろう。

でも、「仕方がなかった」と納得はできないこの気持ちは何だろうか。

われわれは「直観」で危ないと思っていたのを、「確率」で無理やりねじ伏せていたのではなかろうか。

実際、危ない危なくないという「確率」ではなく、事実に直面した時、納得できるかが問題なのだ。

1000人にひとり、1万人にひとりでも、それが自分に起きるかどうかはコインの表裏で、

見ず知らずの1000人、1万人など知ったことではない。そんな人数は自分以外の仮想化された群衆に過ぎない。

「直観」は「錯覚」の場合があることも事実だ。

「直観」を「事実」で補正するのは正しいだろう。

だが、「直観」を「確率」で補正するのはナンセンスはないか

将棋名人だって「直観」を信じることもある。

「直観」は、われわれの知らない計算を裏で、オーバークロック的にやった結果かもしれないのだ。

「直観」をバカにしてはならない。

原発をどうするか。「事実」と「直観」で考えればよいではないか

確率」よ、おまえはもう要らない。

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