2022-05-17

カップ麺作れないやついる?

俺がそうなんだけど。以下に失敗のパターンや要因を考察して、少しでも失敗しないようにしたい。

袋が多いカップ麺は難しい

3袋あるやつから難易度が跳ね上がる。2袋でも3割失敗する。

失敗の要因は、カップ麺の作り方のバリエーションにある。

袋が何個あるのか。

袋の中身をどのタイミングで入れるべきなのか。

フタの上で温めるのか。

パターンありすぎる。また、例外が多すぎる。乾燥かやくの野菜はお湯を入れる前に入れるべきものが多いことは言えるのだが、後入れのかやくもある。

また、油系の袋はフタの上で温めるものが多いけれども、時たまフタの上で温めないタイプがある。

また粉系の袋も同断で、お湯を入れる前に入れるのか、お湯を入れた後に入れるのかわからないものがある。

対策:なし いくら説明文を読んでも理解することが不可能。これは世の中にカップ麺とその袋の内容物の処理の仕方が多すぎるためである


お湯の入れるライン

これがわからない。暗くてラインがわからない。プラスチックの凹凸面が不確かな上(暗い)、とき乾燥麺の付近にあり見分けがつかない。

乾燥麺の上に固定値でミリにして欲しい。法律とかで。

対策:部屋を明るくする。懐中電灯で照らす。懐中電灯にお湯がかからないように注意するべきだが、結構懐中電灯改善できた。


お湯を入れる時間

からない。世の中にカップ麺があまりに多すぎて、何分待てば良いのかわからない。

私の食べたことのあるカップ麺の中には、最短2分、最長5分の待ち時間が書かれている。

これを間違ってしまう。

また、分数確認できたとしても、所定の時間を守ることができない。

例えば別の家事をしてしまい、そちらに夢中になって7分経過してしまう。

あるいはyoutubenetflixを見て、時間が経過してしまう。youtube等を見るのは理由があって、シークバーのところに時間が表示されるためだ。

動画を見ながらタイマーがわりに使っているのだが、動画に夢中になり時間を経過してしまう。

またあるいは、動画を見ながら時間を見るので、何分経過したかからなくなる。

対策タイマーを用意する。ただし、タイマーをつけ忘れたり、タイマーが経過しても他のことをしてしまう。こうした場合はどうすれば良いのだろうか。



以上のように、カップ麺を作る工程には、適当タイミングで袋の中身を麺に投入し、適当な分量のお湯を入れ、適当時間待って食べ始める必要性があある。

私の性癖ではこれらをいずれも遵守することは困難である

私の問題点言い訳

ここまでお読みいただいた諸賢は、ちゃん説明文を読め、と思うだろう。おっしゃる通りである

ただ、そもそもカップ麺というものは、気軽に食べられるから良いのだ。

おいしいものを食べるのであれば外食もするしwoltを頼んだりする。

工程お金を気にしないで食べられるのがカップ麺のいいところだ。

気軽に食べたいのだから説明文を読むような堅苦しい思いをしたくない。

そんな気軽な気持ちのままでカップ麺を作ろうとしているところに私の悪いところがある。

何も考えずにチャチャっと作ってチャチャっと食べたい。

ところが、カップ麺の多様さはそれを阻むのである。すなわち、説明文をしっかりと読み込むことを前提として作られているのである

これは本末転倒では無いか。またややこしいことに、ただお湯を入れるだけでいいカップ麺もある。

世の中の全てのカップ麺が何らかの能動的な袋の中身をいれるアクションを強いるのであれば、私ももう少しこれに心を配っていたと思う。

ところが、である

お湯を入れるだけでいいやつもある。これがいけない。

とにかく、カップ麺は気軽さに対して説明文が多すぎる。

いつも同じやつを食べればいいという指摘もあるだろう。本当にその通りで、焼きそば弁当ばかりたべている。

ところが、仕事の付き合いでよく私は売り出し中のカップ麺をもらう。だから難しいのだ。


全体的な対策として

私はカップ麺ちゃんと作れないと結構落ち込む。

多くの人が食べられるように設計されているのに、食べようとしたら油の小袋が容器の中に入ったままだったりするのだ。

多くの人が食べられるよう設計されているのに、お湯を入れすぎて味が薄くなってしまうのだ(お湯は粉に混じってしまうと捨てることができない)。

何故落ち込むのかというと、説明文と違う行程をとってしまうところがいけないと思う。

説明文は絶対的ものだ。そのようにできるか、説明と違うことをしてしまうかの2択になる。

説明文があると、何が正解か、何が不正解か明確になってしまい、不正確なことをしがちな私は落ち込むのだ。

こうしたことから、私はカップ麺を食べることをやめて普段自炊をするようにしている。

例えば、私が野菜炒めやおいしい無水カレーを作るわけだが、ここには説明文がない。またもちろん説明文を作る予定もない。

説明文がないから、私の料理には不正解はない。もちろん生のまま食べてしまうのはダメだが、そういうことではない。

作る工程をあえて明確化しないから、料理の作り方の間違いが生まれないということだ。

カップ麺のような説明文がないから、多少作り方にブレがあっても不正解にならない。

こうした心理的安定があるから、私は自炊をするようにしています

  • 至高のカップ麺であるシーフードヌードルが袋ゼロなんだから嘘松

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