2015-05-10

作者論は作者に会わずして語れない

作者論を語る時、作者と会うというのは必須過程だと俺は思う。

作者と会うのは義務というわけではなくて、

ある作品が好きなら、それを作った作者がどういった人物なのか気になるものだと思う。

最初は表紙裏のプロフィール欄やツイッターつぶやき

ブログ書き込みを見て満足するけども、

やっぱり気になる人物がいたら、

実際にお会いしてお話ししてみたくなるのが普通の反応だと思う。

でも一方で、みんな作者のことをそれ以上知るつもりがないのではないかとも思うんだ。

作者がその作品をどう考え、どうやって作ったか。それをみんなは知りたがっているように思う。

それは作者論ではなく、作品論だと思う。大事なのはその先なんだ。

その人がどんな趣味をもち、どんなものを食べていて、好きなテレビ番組は何で、

よく見るネット記事は何で、よく遊ぶのはどんな人で、家の掃除をしているかとか、寝るときは布団なのかベッドなのかとか。

これらを知ることは完全にストーカー行為で、プライバシー侵害だが、それは仲が良くない場合の話だ。

仲が良くなれば一緒に泊まって、一緒にご飯を食べて、一緒に話が出来る。

作者として見るのではなく、一人の人間としてその人を見る。それが作者論だと俺は思う。

ファンとしてのその人、知り合いとしてのその人、隣人としてのその人、伴侶としてのその人、家族としてのその人。

声優ファンにはこの「一人の人間としてみる」という部分が抜けている人が多いように思える。

声優結婚したいと言うファンは多い。結婚してどうする?

汚い話になるが、自分の好きなアニメキャラの声で喘いでほしいと言うだろう。少なくとも俺の場合はな。

仮に何かの手違いで結婚できたとしよう。その声優自身気持ちはどうだ?

私の全てを見てほしいと思わないだろうか?

アニメキャラクター中の人としての私ではなく、一人の人間として私を愛してほしいとは思わないだろうか?

かつて阿難という人がいた。

彼は仏教の始祖である釈迦につきっきりで身辺の世話をし、最も彼の教えを聞いた人だ。

阿難にとって釈迦という人物は、現代社会で祀り上げられているような

まるで神のような存在ではなく、尊い考えを持った優れた人物であるとみていたことだろう。

まあこれも、実際に阿難に会ってみないとわからないことなんだけどね。

実際は嫌々付き添っていた可能性も無きにしも非ずだからね。

言うなれば、作者論を語るということは、その人を語るということなんだと思うんだ。

から「作者」って言い方自体が作者論を語る上では不適切なんだ。

「作る者」と「見る者」。両者は同じ人間のはずなのに、何か見えない壁があって、

「作者」というのは遠い雲の上の存在のように感じたりする。

忘れてはいけないのは、その人と自分は、同じ空の下で呼吸しているということ。

皇族でも官僚でもなく、肩書きが「作者」なだけのただの人間

皇族とかも肩書きだけ、と言いたいところだが、さすがに彼らにお近づきになるのは難易度高いよね。)

作者論を語るなら、まず会おう。そして、話そう。

  • 本当の姿を知りたいとか言っておきながら、 距離が近づいた途端、私のアラばかり目に付いて不機嫌になるんでしょ。 可愛さ余って憎さ100倍、ツイッターで「やっぱりあいつはクズだ」...

    • その人のアラを知ってやっぱりクズだとか言うなら自分にとってその作者は所詮その程度だったってことでしょ。 不機嫌になったとしても、やっぱりその人のことが気になるから作者論...

  • サント=ブーヴ乙

  • 何を言ってるのかよくわからんがなんか全体的にきもちわるい。

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