はてなキーワード: 社会的弱者とは
だからといって、自分は弱者だと思ってるから「お前は弱者じゃない」って言うのも違う気がする
たぶん恋愛弱者という意味で弱者男性を自称してるんだと思うけど、これは難しい
異性との交際を望んでいるけど得られないだけで弱者と呼んでいいのか?
たとえば望んでいるけど女性に話しかけたこともないような人間はどうだ?
既婚者がみんな容姿端麗というわけではないというのは調べるまでもないだろ?
話しかけたら可能性はあるかも知れないけど、話しかけもしなければ可能性はゼロだ
お付き合いしたいと異性に好意を持ったことすらない奴がモテないモテないって言ってたら弱者なのか?
難しい
年収が300万円以下とかならわかるけど、そうでない奴まで名乗ってる
スクールカースト低位で低身長チー牛顔など容姿に恵まれず体力もなく男性的な魅力にコンプレックスがあるから弱者男性らしい
考えれば考えるほどわからない
元々は社会的弱者っていうけど福祉の網から男性はこぼれ落ちてるよねって話から弱者男性って言葉が生まれたと思うけど、非モテの意味で「弱者男性」使う(たぶん)男が現れてから話が通じなくなったよね
社会的弱者はそういった活動をする余力がなく、女性の場合はフェミニズムによって多少なりとも社会的弱者女性は救われているのは間違いないだろう
(遺伝的にしょうがないことだけど)男性と女性で発達障害の割合は男性が圧倒的なので、非弱者男性が社会的弱者男性に共感して差し伸べる手は、女性のそれに対して少なくなってしまう
明らかに構造的な欠陥で、社会福祉が充実するほどその差は大きくなると考えられる
これはかなり影響が大きいと考えている
社会的弱者男性に対して行動を行うにしても、何を求めているのか声がなければ知る機会がないし、動きようがない
失礼ながらブコメの中には社会的弱者男性と思われる人が多数いるけれど、そういったIDがどういった助けが欲しいというコメントは中々見ないし、それどころか「俺は社会的弱者ではないけどな」みたいな強がるコメントが散見される
はてぶの外でも、それを感じることがあると思う
社会的弱者男性として声を上げにくい、男性性を要求する社会が悪いと思って声を上げればいいのにって思うけど、そういう文脈での発言は非モテ的な内容に偏る印象が強い
まずは、非モテの意味で弱者男性を使う男性がいなくなればと考えている
その理由は、社会的弱者(自分も含む)が安楽死を半強制される事態になるから
なんだと思うんですけど
この論者の言うとおりに安楽死の完全代替物として自殺が認められるのなら
既に社会的弱者は自殺を半強制されてるはずなんじゃないのか?と思うんですよね
でも誰がどう見てもそうなっていないし、それは論者さんもご理解いただいてると思うんですよね
被告は原告の言動を元にして、それを「あらゆる社会的弱者に対する長年のハラスメント行為(以下ハラスメントと行為と略す)」と表現したと
でも、それは被告が「ハラスメント行為」だと評価したにすぎず、意見の表明だと
裁判所は原告の言動を「ハラスメント行為」だと認めたわけではなく
被告が「ハラスメント行為」だと評価したのには妥当性があるから名誉棄損ではないと
これが被告が原告に対する人事権を持ってて「ハラスメント行為」と認定した上で原告に不利な処分を下した労働訴訟の事例であるなら裁判所は「ハラスメント行為」に当るか否かを判定したかもしんないけど
人間文化研究機構との裁判はまさにそれに該当するはず(処分理由に、日本歴史学協会とオープンレターがあったはずだから)
でもこっちは和解して詳細がわかんない
ってことでよろしいか?
とりあえず弱男って俺の観測範囲ではここでしか見ないんだけど、使われ方としては、
恋愛弱者、金銭・社会的弱者として使われてる気がするんだけど、どっちかというと前者の意味合いが強いように思われる
例えば社会的に上手く行ってなくても恋愛では強者として振舞える、いわゆる「ヒモ」的な男を弱男とは呼ばない気がする
でもなんとなくだけど、彼女がいる男でも、自分の社会的な地位というか、仕事で上手くいってないとかいう奴も弱男を自称してる感じもある
個人的には、恋愛、社会的両方兼ね備えてこそ弱男という気がするんだが、なんか弱男を自称する男自身がそれを認めないというか
自分を弱男にカテゴライズする事がアイデンティティーになってる感すらある
そもそも、弱男って「じゃくお」それとも「じゃくだん」、どっち?
NHKのEテレで「夏井いつきのよみ旅!」という番組をやっている。これは、TVバラエティの口の悪い添削でおなじみ?の俳人夏井いつきと、元ホストのホストクラブ経営者・ローランドさんがあちこち旅をしながら俳句をなんか色々する番組らしい。番宣しか見てないから、どんな番組か説明しようとして急に文章がぼんやりしたが。
なぜ番組を見ないかといえば、どちらの出演者も好きじゃないからなのだが、特にローランドさんが本当にこう、TV出るのかーそれも公共放送の教育チャンネルに出すのかー、という思いだ。このいろんなことがあったご時世に。「俺の店では売掛やらないよ」とブログで宣言したことで男を上げたみたいに言う人もいたが、やらない宣言したということは、やってたんじゃん、って思う。まぁ過去のこと言ったところで詮無いんでしょうけど。
ローランドさん個人や彼のやっている店が「悪いホスト(クラブ)」かどうか、ということは私には知る由はないが、ある種の象徴として「TVに出ている元ホストの有名人」だ。
なんだかなー、「社会に許されてんなぁー!」って思う。
歌舞伎町やホスト界隈ではなぜか短歌や俳句を作る勢力があって、数年前にバズった「ホスト万葉集」や「アウトロー俳句」と、作品になっているものもあるのだが、ローランドさんは、なんか松本人志の痛いエッセイみたいな感じの本は出しているけど、詩(短歌や俳句)はしたためてはいない。のになぜか「俳人と旅する番組」の出演者に収まっている。
つまり「象徴としてのホスト」としてブッキングされてるんだろうと思うのだが、つまり「象徴としてのホスト」は、Eテレで番組持ってる程度には社会に許されてんのなぁ~~。
夏井いつきもせっかくホストを連れて旅に出たいっていうなら、「象徴としてのホストタレント」じゃなくて、アウトロー俳句まわりのホストの人とかを連れて旅をすればいいのに。アウトロー俳句相当いいものなのにな。まぁ夏井いつきがホストと旅したがっているわけじゃないとは思うが。
まぁ鮮度の高いホストだと、さすがにTVサイズじゃないんだろうけど、でもなーなんかなー。
頂き女子のマニュアルらしきものが流出して、ホストを頂点とした「水商売のタコ部屋構造・弱肉強食生態系モデル」みたいなものを多くの人が想像しながら、頂き女子を罵倒したり(まぁ仕方がない面はあるだって犯罪容疑者だもの)、頂き女子にカモられたおぢを馬鹿にしたり(かわいそう)、うっかりキャバクラ行って「頂きそうなキャバ嬢トーク」を目の当たりにしたうっかりしたおっさんを馬鹿にしたり(かわいそう)している。
なんていうか、ホストに貢いでた」キャバ嬢や、キャバ嬢に貢いでたおっさんたちは「社会に許されてない~~」という感じである。キャバ嬢は、そして頂かれたおぢたちは、Eテレでお金出してもらって旅とかしてない。
まぁ個別にいえばローランドさんは悪いことはしてない(表面上。でも売掛はやってただろう?とやっぱり思う)から当然、許される許されないということではない。
一方で頂き女子は容疑者だし、だまされたおぢ達は凄くかわいそうだけど根底には下心があるだろうから100%の同情は生まれにくいというのはあるだろう。でもローランドさんはたぶん売掛さんざんやってたんじゃねーの?と思うんだよな。
まぁ、そうはいいつつ、ローランドさんについてはあんまり知ってることがないから今検索してみたけど、別の源氏名だったけど女を金で見たくないから源氏名を変えたとあって、まぁそういうことなんだろう(売掛さんざんやってたんじゃねーか、というか)
でもその辺は明らかにせず、良い感じにウォッシュしてTV番組に出ていると、いつの間にか社会的に許されてるポジションにいたりする。なんだかね。なんだかなー。
全然話は変わるが、実は、キャバ嬢にハマったおぢを3人ほど知っていて、ハマるところから破滅するところまで身近で観察したことがある。昔の職場にいたのだ。辞めてよかったあの会社笑。
正確に言えば、ハマった3人のうち2人は社会的信用がかなり棄損され、1人はハマりかけてたが「はしかが治った」感じで収まった。
社会的信用の棄損、というのは要するに「妻と別居」「離婚」「左遷」「弁済」である。まぁ今でも元気に暮らしているような話は風の噂で入ってくるが、別居の人は、別居したまま10数年、なぜか離婚せず結構な金額の妻子の生活費を振り込みされられ続けているらしい。自業自得とはいえお気の毒である。
さて、ハマったおぢ3人に共通しているのは…、と考えて特に外的には大きな共通点がないのだった。
お金はそれなりに(キャバクラ通えるぐらいには)あり、3人とも結婚して子供もいた。未婚だからカモられおぢということではないように思う(まぁ結婚してたって孤独ってこともあるからねぇ)。あと「断れないタイプ」のような弱者男性らしさもなかったと思う。3人のうちの一人は私が別の会社のオッサンからセクハラターゲットにされたときに助けてくれた人だったし、別の人は会社の宴会や懇親会でも人気のムードメーカーのような明るい人だった。見た目も別にごく普通。
色々ほんと色々あって左遷されることが決まった人に、何でハマっちゃったんですか?と聞いたら「だってあんなきれいな子が俺の話で笑ってくれるんだよ!」と言われて、あーダメだこれは…と思った思い出。強いてあげれば3人の共通点は「若くてかわいい女の子がとにかく大好き」なところだったかも。
ハマりかけてたけど治った人は、その職場において三人目だったわけだが、周囲が全力でもう、止めたよね。
「医学部に行くお金をキャバで稼いでると言っていた、いい子なんだまじめな子なんだよ、親御さんが女が医者になるなんて生意気だと反対していて学費出してくれないって言うんだ」と、割と目が据わった表情で会社の忘年会で言われて、同じ卓に座っていた全員が目を合わせて「…第三の被害者が」という感じになった。それはキャバ嬢や風俗嬢の常套句だよと第二の犠牲者の人が言って、私たちもスマホで色々検索したりして「ほら手口なんだよ」とかさんざん皆で説得したけど駄目で、結局2次会の後に、第二の犠牲者の人とそのキャバクラに行ってた。
そして第二の犠牲者の人(離婚済)がそのキャバ嬢にハマって、第三の人は「まんまとハマった第二の人の様子」を見て己を客観視できたらしく、その日でキャバクラ通いをすっぱりやめたみたいだった。
要するに、別に「かわいそうな弱者男性」だけがターゲットなわけでもなく、そして「下心はいろんな危機管理レーダーを簡単に狂わせる」んだよね。まぁ気持ちの暴走はどうしようもないのかもしれないけどさ。
まぁ、貢ぐおぢは社会的弱者のGiverだ、というのは、当てはまってない被害者も結構多いんじゃねーかなとは思うんですよね、だって下心があるからお金を貢ぐわけで、別に純粋な気持ちでお金出してないわけじゃん。ヤラセてもらえるかも、俺は彼女にとって特別だから、と思うから貢ぐわけでしょうし。
おい、文章なげーんだよチー牛!と言われる前にポイントを書く。
・曖昧な概念で社会的弱者を生み出し、強者が弱者を叩く弱いものイジメの構図が平然とまかり通っていること
・ルッキズムに基づいた弱者のイメージは商業主義において利用されやすく、チー牛顔に限らず今後も資本家による弱者イメージの流布・それを利用したビジネスが展開され経済的搾取を招きやすい
チー牛に限らず、大衆にとって"叩いて良い対象"となったものは相手が人間だろうと平然と"リンチ"のような誹謗中傷が行われてきた。
しかしチー牛はそれらとは大きく異なる。チー牛男性というあの一枚絵に象徴されただけの曖昧な概念であり、一個人や団体ではない。
では概念を叩いているのか?それは違う。叩きたい人がチー牛男性という概念を引用し、社会的弱者として扱い叩く。ここにチー牛叩きの問題の本質がある。
真の問題はチー牛という概念でも、ルッキズム至上主義でもなく、社会的弱者を誰でも簡単に作り出すことができ、レッテル貼りによるリンチが平然と横行している点だ。
そしてもはやチー牛という概念を使ったリンチはネットに留まらず、現実の社会においても表出しつつある。
やがては子供、学校社会にも影響するだろう。子供はコミュニケーション能力が成熟していないし、キャッチーなワードに引かれやすいのでチー牛が合言葉のようにイジメのキーワードになっても何ら不思議ではない。
ここまで書けばもう理解していただけるだろう。「なぜイジメがダメなのか」を一から説明しなくとも、曖昧な概念によるレッテル貼りで誰かを叩くというのは誰でも被害者になり得るし、加害者が許されて良い理屈はないことは自明である。芸能人叩きでも、学校、会社のイジメでも自殺という最悪な結末によって事が収まる事があるように、チー牛叩きから人が死ぬこともあり得るのだ。
全く別の観点での問題がある。ルッキズムに基いた社会的イメージというものは「簡単に作り出せてしまう」ということである。
ファッションが分かりやすいだろう、「今年のトレンドは〇〇」のように多くのメディア、企業によって簡単にイメージというのは作り出せてしまう。
恐らく直近数年以内に、「脱チー牛」を促すための邪悪な広告がメンズサロンか、美容院か、美容外科か、出てくるだろう。
ではその流れが終わったらどうなるか?
チー牛効果で商売が繁盛すると分かれば次の弱者のイメージを作り出し、それをネタにまたビジネスをすれば良い。美容系でなくとも、一時期バリバリ財布がネタにされたように何かを貶す風潮さえできればそれがお金になるのだ。そうして企業による不安を食い物にした経済的搾取を受けるのは一般人である。
どちらの問題もチー牛男性叩きに限った話ではなく、過去似たような社会潮流はあるだろう。
この文章で伝えたいのは「強者側に回りたい人間の私利私欲に加担してはならない」ということだ。あなたが安易に加担してしまうことで被害を受ける人が生まれるし、あなたが被害を受けない保証はない。ちょっと叩きたい、馬鹿にしたい人がいたとしても、その小さな悪意の集合体が呼び起こす邪悪について、今一度立ち止まって考えて欲しいものだ。
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
荒唐無稽な政策と主張,問題行動を厭わない党首,話の通じない「信者」のようにも見える支持者。
支持者じゃない立場から見ると異様で,「こんなことを信じるのは馬鹿か,人生詰んで一発逆転狙ってる奴」と笑いたくなるのはわかる。
でも,よく考えて欲しい。党は綿密な計算をしてこの状況を作り上げていると思う。
既存の政党のように現実路線で政策を立てて主張を行うと,間違いなく自民・立憲・国民・維新あたりの政党と主張が重なる。
良くも悪くも,現在の日本の政党はほとんどが中道で,これは国民の多くが中道であることを反映している。
では党はどうしたか?極端な主張をする支持者を「作り上げた」。
底辺で燻っている,特に政治思想のない人間に,「今あなたが底辺にいるのはあなたのせいでなく社会のせい。政府がこうすれば全てうまくいく」と吹き込む。
SNSを中心に自らの主張を広める手法は見事というほかない。極端な主張を行い,それに一般の人間は反論を行い炎上する。
炎上の力で拡散し,より多くの人間に主張を届けることができる。
「主張に批判が集まって,支持者が主張のおかしさに気づくことはないのか?」。ない。陰謀論の信者と話したことはあるだろうか?
彼らとは会話が成立しない。彼は何をいっても,「そんなに否定するということは,やはり政府はこの事実を隠したがっている。私たちは正しい」という結論に至る。
党は大多数の支持を集めようとは思っていない。政党として成立する条件に必要な支持者がいれば良いのだ。
今まで支持者を笑っていた方は,党の先鋭化した主張を拡散し,社会的弱者をターゲットとして支持者集めを行う様子をよく観察して欲しい。
中学生に性的暴行したクルド人は難民申請中だった 地元市議は「実態を正しく直視するべき」 | デイリー新潮
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.dailyshincho.jp/article/2024/04050558/
「12歳の女子小学生に性的暴行したアメリカ人は米海軍と海兵隊だった」こちらの方も「実態を正しく直視するべき」ですよね。https://www.tokyo-np.co.jp/article/174853
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751630356195896512/comment/donovantree
今回の埼玉の事件とは直接の関係こそ何もないけど、確かにひどいな。
難民の男性はまだ社会的に弱い立場かもしれないけど、その難民男性の事件のコメントで書かれた沖縄の米兵の事件の方は、擁護すべきところがまったくない。
また、被告人となった海兵隊員の家族は「人種差別によるでっち上げだ」「若者たちが日本に連れ去られようとしている」と主張し来日した。来日後も「沖縄だと陪審員に良く思われないから裁判が我々に不利になる。だから裁判の場を九州に移せ」などと被告人の妻らが主張する様子が日米双方のメディアに流された[注釈 3]。被告人家族は泣きながら失神する姿まで披露したものの、そもそも裁判員制度が始まったのが2009年であり当時は導入されておらず、日本では的外れで空回りに終わった。また文化的にも白人・黒人が絡む人種差別問題になじみが無いため全く同情の声は挙がらず、むしろ反感を煽る結果となり、世論からも相手にされなかった[16]。
沖縄でも一番弱い立場の人を襲った被告の家族が、あろうことか、自分たちの方が人種的に差別された弱者を僭称して大騒ぎしたらしい。
反人種差別運動の主張に乗っかれば、自分達の身内の男も難民男性みたいな社会的弱者を装えると考えたんだろうか。
WPATHから流出したファイルにより、世界的なトランスジェンダー医療機関において、子どもや社会的弱者に対する医療過誤が蔓延していることが明らかになった。
世界トランスジェンダー医療専門家協会(WPATH)のメンバーは、異性間ホルモンやその他の治療が衰弱させ、致命的な副作用をもたらす可能性があることを認識していたにもかかわらず、長期的な患者の転帰に対する同意を欠いていた。
ファイル内のメッセージは、統合失調症や解離性同一性障害などの深刻な精神衛生上の問題を抱える患者や、ホームレスのようなその他の脆弱性を抱える患者が、ホルモン剤や外科的介入の同意を誘導されていることを示している。メンバーは、これらの患者に関する懸念を否定し、患者を守るための努力を不必要な "ゲートキーピング "だと決めつけている。