はてなキーワード: ラベリングとは
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
それならせめて、噛み付くべき部分は「特に「理知的」であるとラベリングされている男性に多いそうなんですが」の部分であるほうが自然では?
言われてみればそうだな
なんか違和感を感じていたのはこっちか
それと
料理に関しては俺は「どっちもするのが当たり前だろ」派なので
「夕飯は手料理を作ってほしい」と言う要望はある。
これを、引用元では「要望」と言っているが俺は「文化背景」だと思う
「新人は上司に付き合って飲みに行くべき」でもいいけどさ
そう言う文化背景と個人的な要望ってのは切り分けた上で、
「文化背景」の異なる人と付き合うのは大変だよねって結論に導くべきじゃないかな
混乱を避けるために俺は元増田ではない
それならせめて、噛み付くべき部分は「特に「理知的」であるとラベリングされている男性に多いそうなんですが」の部分であるほうが自然では?
元増田がフェミニストの逆(なんていうの?)の人間だからこそ「手料理は妻が作るべきというのは男性の思い込みなんかじゃなくて正しいことだ! 暴論だ!」と、議論の本質ではないささいな例文にがつがつ噛み付いている、よくあるフェミ団体のように見えると言っているんだけど。
1つの例えに過ぎないことがわかるはずだが
「特に「理知的」であるとラベリングされている男性に多いそうなんですが、」
ってバイアスから語りがスタートしていなければもう少し公平に書いた文に読めると思うよ
例自体も典型的なフェミの言い分だし
この作者自体はフェミでは無さそうだけどね
「女性は子宮で考える」とは円地文子だっけ。戦前の作家の意見であるし、当時ですら物議を醸していた意見だしなー。
最近は男性(自分)の方がずっと感情的に振る舞っているようにも思える。知っている女性に比して、感情をコントロールしたり、処理する訓練や体験が足りていない、というか。振る舞いと内心の違いについては、これはサンプル数が自分しかないのでよくわからん…。
エンジニア云々はともかく、「女は子宮で考える」っていうのは間違いだよ。
女は子宮で考えているように見せかけているだけであって、頭の片隅では常にそろばん弾いて計算しているものだから。
あと、男=論理的、女=感情的っていうのも間違いだよ。本当は男も女も同じくらい感情的。
これは、特に「理知的」であるとラベリング*2されている男性に多いそうなんですが、自分が相手に「彼(女)に○○して欲しいなぁ」などと感じているとき、時に人はそれを「彼(女)は○○すべきである」という風に思考していると、錯覚することがあります。例えば、「夕飯は手料理を作ってほしい」という感情を抱いたとき、特に男は、それを「妻は手料理を作るべきだ」という、論理・理屈に無意識のうちに変換してしまうのです。それは無意識のうちに行われますから、本人としては「理知的」に考えて言っているつもり*3なんだけど、相手にしてみればやっぱり理不尽な命令でしかない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20071201/1196485867
「変人」という言葉に込められた意図次第で受け取り方も変わるし、人単位で割合取るのは難しそう。
自分の周りでは、表面上は褒め言葉として使用してる人ばかり見かけた。類友の一種である可能性も高いけど、自分は褒め言葉や貶し言葉として「変人」って単語を使ったりはしてない。リスクがでかすぎる。
「僕は変人って呼ばれると嬉しいからみんなにもふりまこう!」みたいなある意味ピュアな心意気から発せられたなら、方言のようなものだと思って褒め言葉として受け取るし、「どうせ変人って言ってあげれば喜ぶんでしょ?」みたいな勘違いラベリングをされて投げかけられた言葉なら、「お前など知るに値しない」ってアピールなんかも含めて貶し言葉として受け取る。
もちろんピュア偽装する人とかもいるから、その意図が間違った伝わり方してる可能性もあるけど、通じない嫌味は嫌味ではないって思ってるから、貶し言葉としてはカウントしない。後々嫌味だと発覚したらカウントする。
その中国人女性は日本で介護の仕事をしていて、異国の地できつい仕事に耐えながらも真面目に頑張る姿に感動して、みたいなきっかけだったらしい。その感動が自分を衝き動かしたみたいなんだけど、結婚までは自分の選択に確信を持ち、反対する周囲を説得して、祝福されるまでに理解を得たのに、結婚した後に突然幻滅して「なんでこんな美人でもないオバサンの…しかも中国人と結婚してんだ俺…」と絶望したあたりで目が覚めた。
起きた瞬間、夢の中とはいえ自分が「美人じゃない」とか「中国人」とかお手軽なラベリングで他人に対して嫌悪を抱いたこと、そんなインスタントに評価が激変してしまうのにそれを予期できず周囲を巻き込んで突っ走ったことに、夢から覚めた後も絶望した。
将来自分に起こる出来事としても、将来なる自分像としても、もっとも見たくないバッドエンドを見た気分。自分の無闇に楽観的な性格やら時に視野狭窄に陥る愚かさを考えると、将来本当にあってもおかしくない展開であることが最悪だ。現実があの悪夢と地続きだと思えてしまうなんて、本当にひどい夢だ。
ポルノコンテンツとか風俗関係のサービスは、基本的にセックスするまでの信頼関係を結ぶプロセスをすっ飛ばしたものなのは確かだ。
幼馴染とかメイドのように最初から一定の好意が期待されているような関係が男性向けのコミック・ゲームに多いのも事実だろう。
そりゃホストクラブだとか執事カフェだとか女性向けのそういったプロセスをすっ飛ばしたものも存在はする。ただ、全体としては男性向けのものの方が圧倒的に多い(需要度が高い)ので、女性向けにもそういうものはあるといって相対化をしてみせるのはさして意味がない。
ポルノコンテンツじゃない映画なり小説なりドラマなりだと、プロセスの部分もきちんと描いてあることが多い。
そういうものを鑑賞していれば普通はそうはバランスの悪い考え方にはならないのではないかと思う。
しかし、昨今の思春期の少年には、そういった映画なり小説なりドラマなり、ヘタしたら少年向けの少年漫画であっても鑑賞しない輩がいるようだ。
それでも性的なものには興味があるので、アダルトビデオだのエロマンガだのには手を出す。
異性関係のテキストとして参照するのがそういうポルノコンテンツしかないと、どうなるか?
見ず知らずの他人/単なる同級生レベルから徐々に段階を踏んで親密度を上げていくやり方が分からないということになりはしないか?
ここで、女性との距離の詰め方が分からないという非モテの主張が思い出される。
いわゆるDQN向けの雑誌なんかだと、プロセスを踏んでいくためのライフハックが紹介してあったりする。
しかしDQNを専らバカにしてる非モテがそういうものに手を出すのは想像しにくい。
スイーツ(笑)と言って流行りものに背を向ける層であれば、スイーツ(笑)が好きそうな、恋愛が描かれている映画だの小説だのドラマだのもバカにして見ていないだろう。
かくして彼らは自らの選択で、女性との距離の詰め方を知る機会を放棄する。
相手から積極的にコミットしてもらえないとどうにもならない受け身体質になる訳だ。
別に受け身だって悪くはないが、関係構築の方法を知らない/知ろうとしない態度は、彼らに対して積極的に近づいてこようとする女性にとっても、彼ら自身にとっても、あまり幸福なものではないように思われる。
感動系のエロゲをやって感動している層が時として失笑されるのは、映画だの小説だので描かれている人間関係の機微を相当劣化圧縮したようなレベルの内容について感動していることから、そういった普通の教養がないのが見透かされるからだ。
こういうことも、異性関係のテキストとし参照するのがほぼポルノコンテンツのみという層が実在することの証左ではないだろうか。
ポルノコンテンツのみ参照している場合、プロセスの進め方が分からないという風になることもあれば、プロセスを踏む必要性を感じなくなるという危険性もあるのではないだろうか。それが痴漢・盗撮等の「気軽な性犯罪」が蔓延する土壌になっているということはないだろうか。
ポルノコンテンツのゾーニングは「分別のつかない未成年が信じ込んでしまって性犯罪を犯す」ことの防止策としては実質無意味ではないかと思う。恐らくそれに18禁とラベリングしてあるだけで、思春期の少年は躍起になってそれを入手しようとする。そういうものだろう。ポルノコンテンツを進んで見たいと思わない、目にすると不快感を感じるという層にとってはゾーニングは有効だとは思うが。
恐らくゾーニングと共により必要なのは、思春期の少年に対して、女性とプロセスを踏んで信頼関係の構築をすることの必要性、そして実際の関係構築のやり方を正しく伝えるコンテンツを提供することなのではないだろうか。
恋愛至上主義の根幹には恋愛普遍主義(恋愛は誰でもできる)があるが、
そこで、恋愛至上主義者は恋愛普遍主義の逸脱者(恋愛ができない者)に
「非モテ」という負のラベリングを貼り、恋愛至上主義者の社会集団から
隔離することで(別に殺したり強制収容所に送ったりはしないけど
テレビ局は地上波衛星関わらず自主規制の規定を設けてるわけだが、このレーティングをもっと明確にしなければいけない。
何故かと言えば、ラベリング差別で表現の自由を脅かす連中から保護するため。そもそも社会倫理を守る以外にこいつらから文句言われないために自主規制してんだから。
面倒事を避けるためには(そんな目的で自主規制してるんじゃないだろうが)曖昧な規定じゃ意味がないし、何より今より強い大義名分が出来る。
Nice boat.だって元々レーティングしていれば起きなかったはずだ。もし同じことが起きてたならレーティングの意味が無い。
アメリカはテレビに機械を組み込んでゾーニングできるようにしてるが、日本だってデジタル放送で実装したし、その移行まで4年もないわけだ。せっかくそんな機能があるのに適当な使い方をするのは勿体無さすぎるだろう。
そこらへんちゃんとすれば、あとは親の監督責任にすることができる。テレビに暗証番号かけりゃいいだけなんだから。
現実的にテレビのゾーニングを考えるとするならば、第三者機関が必要になる。
そこで起きるのが大人の事情やら行き過ぎた規制なわけだが、前者は議論するとして後者は多少レーティングが厳しくなった所で特に問題は無いはずだ。
AVとかで必要以上(ていうか元々いらねえ)にモザイクが大きくなるのは問題だが、微妙な位置にいるVシネがR15になろうとR18になろうと大した問題じゃない。分類だけなら意外と大丈夫なんだ。
例え予想だにしない新たな問題が生まれたとしても、なあなあで済ませて今回みたいなわけのわからない事故が起きるよりよっぽどマシなんじゃないか。
ていうか武士道で殺し合いするシグルイがR15で、人間の体を線路でゴリゴリすりおろすバッカーノが全年齢とかおかしくないか。スクイズとか屁に見えてくるわ。
フットワークの軽い有料局と色々と面倒な地上波民放を比べるのはさすがに酷かもしれんが、日本の自主規制文化はアホすぎる。
いつまで経ってもこういう話が出てこないのは、自分の首を絞めるとでも思っているからか。逆だろ逆。