はてなキーワード: 関西人とは
どうも、この記事の作者です。前もって補足記事に追記して釘を刺しておいたにも関わらず、よくわからない反論(?)が来てしまったので、一応フォローしておきます。同様の誤解をしている人も結構いるらしいので。
実を言うと、この記事については反論することはあまりないんですね。言ってることは、細部はともかく全体としては同意できるものですし、知らないこともいろいろ書いてくれて勉強にはなりました。
ただし、唯一同意できないのは、それをもって私への反論だとしていることです。だって、この人の書いてることって、私の書いたことの「東京」と「関西」を入れ替えて、似たような立場から書いただけの話なんですから。それに私が文句言うわけないじゃないですか。そして、「関西の風土のよい点を聞きたい」といわれても、私は最初からお国自慢なんかする気はないと補足記事で断ったはずです。木によりて魚を求められても困ってしまうのですが。
この人に限らず、反応の中には、自分が批判されたと思いこんで怒っていらっしゃる方がおられたようで、それが少し気になりました。そうした方々は、私がいったい何を言っていると思ったんでしょうか。私は「東京」を批判したのではなく、「東京は中心で地方は周縁」という迷信を批判したのです。いくら私でも、東京の人の全員が「大阪人は民度が低い」なんてことを言っているとは思いませんよ。確かに、最初の記事を意地悪く読めば「東京の人間は全員偏見まみれ」と読めなくもないかもしれませんが、たとえば「アメリカでは、進化論さえも政治的な話題として扱われてしまう」という書き方だったらどうでしょうか。アメリカとかアメリカ人を全部ひっくるめて批判したことになるでしょうか?
その辺の誤解を防ぐために補足記事を書いたわけだし、題名に「東京が嫌いなんて誰が言った?」と書き、本文中に「文化や言語に優劣などありはしない」と太字を付けてまでわかりやすく書いたにもかかわらず、「お前なんか大嫌いだ」と言われるのであれば、もはやこの方は私が何を言おうと気にくわないのだと判断するほかありません。「そうですか、残念です」としか言いようがないことです。
この人ばかりではなく、同様の感情的な罵倒がいくつかあったことは残念です。「東京は中心」という迷信を批判したらそれがすなわち東京を批判したことになっているのだとしたら、その人の中では「東京こそが中心」という迷信が自明化されてしまっているのでは、とこちらまで邪推したくなりますよ、そのうち。
あと、埼玉の件が思った以上に誤解を招いているようなので、一応補足しておきます。
おそらく、誤解を招いているのはこの一文でしょう。
この「埼玉人」は集合名詞ではなく一般名詞です。つまり、「おおよそ埼玉人という奴らはすべて卑屈であって」という意味ではなく、「埼玉人の中にの卑屈な奴がいて」という話です。
たとえば「俺は百円ショップでまで値切るがめつい大阪のおばちゃんではない」と書いたとして、「大阪のおばちゃんは全て百円ショップで値切るほどがめついと思われているのか!」と読む人はいないでしょう。そういうわけで、最初は「『産む機械』じゃあるまいし、邪推も大概にしてくれ」と思って無視していたのですが、確かに主語が「我々」となってみると、「埼玉人」も集合名詞であると誤解しやすいかもしれないと思い直したので、一応念のため補足しておくことにしました。ただそれにしても、直後に
それとも、東京人は自分たちの身内も「ダサイタマ」などといって馬鹿にしているくらいだから、よそ者などもっと馬鹿にしても当然だとでも思っているのだろうか。
とまで書いているのだから、埼玉が馬鹿にされたと読まれるとは正直思いもしなかったのですが。
あ、ちなみに、上の引用箇所の「東京人」も「(その手の)東京人」とでも読み替えてくださいな。なにしろ、ホットエントリになると思わずに愚痴を書き捨てただけだから、細かいところで舌足らずなのは正直ご勘弁いただきたいです。そこを補うために補足記事を書いたくらいなので。
以下蛇足。私が匿名日記を書くとときどき、捨て記事のつもりで適当に書いた記事に限ってホットエントリに入ったりする(受けを狙うと全くといってよいほど入らない)んですが、そのとき必ず一部の特定の同じ人たちが罵倒を浴びせてくるのはなんでなんでしょうね?毎回、全然違う話題について述べているのに。好意的な反応をくださる方は毎回顔ぶれが別なので、ますます不思議です。
もういい加減腹が立ってきた。
b:id:perfectspell 間違い探しゲーム, 100字コメント一部にそういう人がいるから「埼玉は卑屈」「埼玉は馬鹿にされている」と書くのがOKなら、「大阪は民度が低い」と全てのメディア(ネット含む)が言ったとしても、エントリ主には「一部の」と脳内補完されて無問題?
本当に「間違い探しゲーム」ですね。まず、「民度」という言葉は集団に対して使う言葉ですね。次に、「馬鹿にされている」と書くことが罵倒なら「障害者は差別されている」と書けば障害者差別なんですかね?最後に、「埼玉は卑屈」なんて書いてないでしょ。人の書いたことをわかりやすく歪めないでください。だいたい、「一部の」とかそういう問題じゃなくて、たとえば「馬鹿な男が」とか書いたら「男は全員馬鹿」って意味になるんですか、という話ですよ。誤解の余地がある書き方をしてしまったことは認めますが、わざわざ悪い方に解釈されるのは心外です。
関西で暮らして長い一地方人だが、
確かに関西人も、関東出身者が「じゃん」とか「じゃね?」とかを関西で使うと一斉につっこみを入れるが、それは「標準語」を嫌っているからではなく、「関東弁」を標準語と勘違いして無邪気に使っていることにつっこみを入れているにすぎないのだが。
関西人は他府県人が語尾に何を付けていようがスルーするのに、関東弁だけはえらい勢いで突っ込むので、その度に抜き難いコンプレックスを感じて、なんというかもの哀しくなってしまうのだが。この言い訳もまた、えらくもの哀しさを誘うのだった。
ブックマークとトラックバック、一通り読ませていただきました。あまりの反響の多さに驚いています。好意的な反応も悪態も含めて、ひとまずはどうもありがとうございました。
しかしそこで敢えて憎まれ口を聞くと、結局は半分ぐらいの方にしか理解して頂けなかったのだなあ、と思います。あの話を、東京やら関西やらが好きか嫌いか、とか、そういう話だと思ってしまった方がかなり多かったのは相当がっかりしました。そういう風に誤解されないように気をつけて書いたつもりなのに。
個別に返事をすると量が爆発するので、まとめてお返事することにします。ただし、論拠を示さず「関西弁は下品」だの「大阪は民度が実際に低い」だのと繰り返すだけの発言にはコメントしませんのでご理解ください。
まず、親関西(東京)の人にも反関西(東京)の人にもこれはあらかじめご理解頂きたいのですが、私が元記事を書いた前提には、
「東京であれ、関西であれ、その他の地域であれ、文化や言語に優劣などありはしないのだ」
という認識があります。元記事の趣旨はもっぱら、「東京こそが中心である」という思いこみへの批判でしたが、当然「関西は東京より優越している」という命題も全く同様の理屈で論破できることがおわかりでしょう。すなわち、「東京(関東)のローカル文化を特別視して押しつけるな」と言うからには当然、「私も関西の文化を押し売りする気はない」ということも表明しているつもりです。
そういうわけで、私に対して好意的な反応の中には「関西弁で書けばよかったのに」という意見もありましたが、これは私の立場に反するということをご理解いただきたいと思います。元記事でも述べているとおり、私が「じゃん」や「じゃね?」が嫌いなのと同様、関西弁を嫌う人もいることは想像に難くない訳で、それを押し売りするのでは全く筋が通らないでしょう。だから私はここでは共通語(元記事では「標準語」と書いたけれど、「共通語」が適切でしたね)で書いた。それが、日本語文化圏で公共の場でものを言うときの作法だと思うからです。同様に、私は自然科学の論文なら英語で書くでしょうし、無理に日本語で書こうとは思いません。そういう世の現状に対して言いたいことは山ほどあるけれども、です。ルールが気にくわないからと言ってルールを無視するという態度は私は取りません。
同様のことは、関西以外の一切の地域について言えます。私が「東京に対抗意識を燃やしている関西人」だと思った方がいらっしゃるようですが、そう思われるのは私としては不思議であり、不本意でもあります。関西弁が関東弁に劣るものでないのと同様、東北弁に優越するわけでもない。関西文化が九州文化に劣るわけでもないし、琉球文化に優越するものでもない。それはあまりにも当たり前のことです。
誰しも、自分の言語や文化を卑下する必要はありません。標準語との距離がどれほど離れていようと、それは僻地の方言などではありません。同様に、郊外の文化は大都市の文化に従属するものではありません。
こうしたことがよく理解されていないとしたら、その責任は別に東京だけにはありません。早い話、関西人にも傲慢な輩はいるでしょう。しかし私はそれにとどまらず、地方人の屈折した態度全体に問題があると言いたい。
たとえば今回の私の元記事に「関西人はよその土地でも平気で関西弁をしゃべる」という文句を言われた方がいますが、では、外国人があなたの地元で外国語をしゃべっていたら腹が立ちますか?それに腹が立たないとすれば、関西人があなたの地元で関西弁をしゃべろうとも、あなたが世界のどこの土地であなたの地元言葉でしゃべろうとも、誰も文句を言われるいわれはありません。それだけのことです。
こういうと「方言と外国語は違う」と言われそうですが、それは事実に反しています、とだけ述べておきましょう。詳しくは、たとえばロシア語とウクライナ語の関係、ドイツ語とオランダ語の関係などを調べてみられればそのあたりの事情がおわかり頂けるかと思います。
そういうわけで、皆さん、変な奴隷根性や、その裏返しの傲慢さはやめませんか。あなたの言語の価値は、「標準語」からの距離にあるわけではない。実用上は、日本語の共通語だとかあるいは英語その他の外国語だとか、そういった言語を話さざるを得ない状況ももちろん出てくるでしょう。しかし、それはあなたの言語が劣っているせいではないのです。
だから、お互いに意思疎通が負担なく可能な状況であれば、あなたがあなたの言語を話すことに何のはばかる必要もないはずです。逆に、東京で関西人同士が関西弁でしゃべっていようと、中国人同士が中国語同士でしゃべっていようと、それに文句を付けるのは、あなたが何者であれ、了見が狭いことではないでしょうか。
最後に、どうでもいいんですが、「関西人は傲慢だ」と言われる原因についてちょっと自覚があるので書いておきます。
これは大阪に限らないと思うのですが(私も大阪人ではありません)、関西では「負け惜しみ」を自虐ネタとして言うことがあります。一番わかりやすいのは、阪神の低迷期の阪神ファンの言動で、たまに巨人に勝とうものなら「勝った、勝った、また勝った、弱い巨人にまた勝った、勝たんでもええのにまた勝った!」とお祭り騒ぎをしていました。言うまでもなく、このセリフの真意は言葉の表面とは全く反対のところにあります。阪神ファンは「強い」巨人に勝ったから喜んでいたのであり、「勝たんでもええ」どころかどうしても勝ってほしかったから喜んでいたのです。つまり、このセリフは巨人を侮辱しているどころか、憎らしいほどの強敵として賞賛するための屈折したセリフなのです。その証拠に、阪神が強豪と呼ばれるにふさわしくなった昨今、このセリフは余りはやらなくなりました。
ただ、こういう言葉の表裏というのは案外通じにくいものらしいということは、私も最近実感しつつあります。ごく稀に、自虐ネタを言ったつもりが気まずい空気が流れてしまってとまどうことがあるのですが、「暗黙の突っ込み待ち」という文化が関西ローカルであるということを最近ようやく理解して、原因がわかってきたように思えます。私見ですが、関西で一番受けている部類の芸人が全国放送でまるではやらないという理由はこのあたりにあるのではないでしょうかね。
ともあれ、関西人(というか特に大阪人)が「東京なんて所詮あずまえびすじゃボケがぁ、わしらがほんまもんの西側先進国やぞ」とか言っていたとしたら、それは上記の通り、半分以上は負け惜しみの自虐ネタですので、あまり真に受けて怒らないでやっていただけると幸いです。
こんなことぐだぐだ書かずに「マイ・フェア・レディでも観たら?」とでも言えばよかったかな。標準語と首都方言の違いとか(もっともドイツ語なんかだとベルリン方言と標準語は全然違うんだが)、言語で優劣を付けることのばからしさとか、「民度」なんて概念のむなしさとか、あの映画を観れば一目瞭然なんだけれどね。
約一名、普段「リテラシー」が云々とかおっしゃってる方がこの記事にひどくお怒りのようで、言いたいことをちょっと書きかけたのですが、この人だけに反発するのも不公平な気がするのでやっぱりやめときます。元記事もこの記事も、真意は題名その他で強調している通りなので、それ以上に邪推をされる方と話をしても生産的とは思いにくいですし。
>確かに関西人も、関東出身者が「じゃん」とか「じゃね?」とかを関西で使うと一斉につっこみを入れるが、
>それは「標準語」を嫌っているからではなく、「関東弁」を標準語と勘違いして無邪気に使っていることに
>つっこみを入れているにすぎないのだが。
何人か指摘しているが、元増田の思う標準語(関東弁を標準語と勘違い)について。
元増田、何をもって標準語と関東弁の違いを判断しているのだろうか。疑問だ。
自分は東京者だが、東京以外の人と話すと「なまっている」といわれることがある。
これは自分の下町ナマリを指摘されての事なのですが、
下町で暮らしている者以外には判別が難しいようです。
そんな私から見ると「じゃん」「じゃね」あたりは標準語ですよ。というか共通語。
今は変化して??弁では無いと思いますよ。
関西弁そのものがどうこうとは思わないが、関西人のメンタリティが好きじゃない。
人はみんな(お笑い的な意味で)面白くなければならない、とか本気で思ってる奴がかなりいるところとか。
態度のでかい図々しいおばちゃんも嫌いだし。別に東京が良いとは言わないけど。
まあ確かに、標準語と東京弁・関東弁の区別がついていない東京人は多いよね。
私なんかは、通じる範囲でなら方言で話していても問題はないというか、むしろ面白くて良いと思うんだけど。関西人以外の人も、どんどん自分のお国の言葉で話せば良いのにと思う。江戸っ子のべらんめえ口調も、小気味良くて聞いてるの好きだよ。
たぶん、東京に来ても関西弁を話す関西人を嫌うのは、生粋の東京人よりはむしろ地方出身者なんじゃないかな。自分は努力して東京人と同じように喋ろうとしたのに、それをしない関西人がムカつくと。地方出身者としてのコンプレックスがあればあるほど、関西弁を押し通す関西人は、自分のコンプレックスを刺激するものになるんじゃないだろうか。
確かに関西人も、関東出身者が「じゃん」とか「じゃね?」とかを関西で使うと一斉につっこみを入れるが、それは「標準語」を嫌っているからではなく、「関東弁」を標準語と勘違いして無邪気に使っていることにつっこみを入れているにすぎないのだが。
俺のせまい観測範囲じゃ関東甲信越出身のやつは一通り使うし、東京から半径100kmの円を描けば日本の人口の1/3が入るということをもって標準語と呼んでもいいのではないか。
関東人でもない標準語話者をつかまえて「あんたの関東弁・・」「東京弁・・」と言ってくる関西人がいるけど、こういう連中は自らの内なる東京中心主義を他人に投影して闘っているのだと思う。
関西人はたとえ初対面でも、アホか!とか、なにゆうてんねんとか、自由自在に突っ込めるじゃないですか。それが関東の人間にはうらやましいわけですよ。
いや、それはね・・・。「イケメンに限る」ではないけど「リア充に限る」ですよ。
どこにでもいるでしょ、初対面の人にいろいろ、よく言えば親しみ深く、悪く言えば馴れ馴れしく話しかけて盛り上がれる人ってのが。初対面の人に突っ込みってのは、そういうコミュ力高い人だけが使うことを許された技でして、関東でもそれと同じようなことをリア充の人はやってますよ。単に「アホか!」って言葉を使わないだけで。
ちなみにこんなことを書いてる私が非コミュなのは言うまでもないですね、はい。
http://anond.hatelabo.jp/20080629230753 の増田です。
正直、「じゃん」と「じゃね?」で埋め尽くしたレスをしたかっただけです。いまは後悔してます。
関西弁には、いい意味での馴れ馴れしさがあるんですよ。関西人はたとえ初対面でも、アホか!とか、なにゆうてんねんとか、自由自在に突っ込めるじゃないですか。それが関東の人間にはうらやましいわけですよ。東京で、おまえバカだろ?って言ったら、普通は険悪になるんですね。俺たちには無い言葉ですぐに距離を縮められる関西人ズルい。これは、なんというか、下品だと。そういうニュアンスの言葉を、関西弁を評価する言い回しが関東弁には無いと思うんです。
http://anond.hatelabo.jp/20080629214911
上の記事を書いた者です。
うわあ、こんなトラックバックの数にびっくり。頑張ってレスしてみます。
当然じゃないです。関西で関西弁をしゃべらない人を私はおかしいと思いません。標準語でも構わないし、地元言葉を地元言葉と思ってしゃべってる分にはOK。
関東弁が標準の世界で我が物顔で関西弁をしゃべろうとする輩が多数(少なくとも他の地方出身者に比べて)いるのだから、そりゃ非難されて当然だと思うが。
そういう人がいることは認めますが(といっても実際に見たことはないし、日本で英語で押し通そうとする一部のアメリカ人ほど目に余るとは思いませんけど)、関西弁自体が下品という理由にはならないですね。下品な関西人は下品な東京人と同様に下品、それだけのことです。
だいたいあんた、「じゃね?」は方言だと指摘しとるんやからわざと使うのやめてんか。
今でも言われるときがたびたびあるが、自分はそもそも名古屋弁をあまり使わない。らしい。別に意識しているわけじゃない。どうも方言が身につかなかったらしい。
両親とも名古屋人だから、触れなかったわけではないけど。
関西人でもそういう人は結構いますよ。
そうそう、なんで関西弁をわざわざ使ってるんだろうなあ、って人がいますね。関西に移住してきた人は、岐阜より東の人は標準語に合わせるか関西弁を身につけようとするのに対し、岡山や四国より西の人は自分もかまわず地元言葉でしゃべったりする人が結構多いです。なんでなんでしょうね。
「気にするのはお前に原因があるからだ」論法ですか。やめていただきたいですね。
本当に都会人として生活しているなら、この世界は多様性に満ちていて、何が奇妙で何が奇妙ではないかなんてことを決めることができる者はこの世にはいないってことを当然心身に刻みつけているはずだからね。
うーん、「都会人」って言い方が気になりますね。都会の人って(私自身も含め)、都会の方が田舎より高等だと思いたがる気がするんですが、これも偏見ですよね。某社会学者が「田吾作」って言葉を侮蔑語で使ってますが、下品ですよね。
b:id:anigoka 笑いの聖地とか本気で信じてる奴らに言われたかねぇよ、てかつまらないのにお笑いルールを強要してくる関西人とかマジ迷惑|↑うん、ごめんやっぱ大阪
確かにそういう奴もいますね。代わりに謝っておきます。でも、関西のお笑いが関東人から見ておもしろくないのと同様、小島よしおとか関西の基準でいうと全然面白くないわけで、でもちょっと前までは「小島よしおつまらん」というと「KY」と言われかねなかったわけで、その辺はお互い様じゃないですかね。
何やら嫌みの一つも言いたげだけど、一般的に一橋と早稲田は実際に格が違うんでね。
そこんとこよろしく。
わかるわかる。でも、納得はできない。w
私も東京に出る前は「関西は日本第二の都市圏」と思って価値があると思ってたんだけど、東京に住んだら「あー、関西ってなくてもいいな」って実感した。
この方の怒りと全然関係ない話をして申し訳ないのだが、
名古屋人の俺は小学生までは東京の話し方に近かったと思う。「??じゃん」というのも普通に使っていた。ただそれは東京とか意識はなかった。おそらくTVの影響だろう。
今でも言われるときがたびたびあるが、自分はそもそも名古屋弁をあまり使わない。らしい。別に意識しているわけじゃない。どうも方言が身につかなかったらしい。
両親とも名古屋人だから、触れなかったわけではないけど。
中学生くらいになると、関西弁の影響を多大に受けた。っぽい。人に笑って欲しかった。馬鹿にされてもいいけど、笑わせたかった。
だからTVでやるお笑いを無意識、意識的に学んでいた。最近は見ないから分からないけど、当時は99とか好きだった。間合いとか突っ込みとかよく見ていた。
そういったのをマネすると、やっぱり関西弁っぽくやったほうがノリが良い。自然と関西弁的なのが増えた。
方言っていうのは基本的に楽なのだ。はっきり喋らないことが多く、口が楽。流れるように適当。人は楽なほうへ流れる。
今となっては「??じゃん」とか名古屋弁の濁音言葉は不自然なまでに意識しないと出せない。
単なる愚痴で書いたつもりの記事がホットエントリという形で予期せぬ注目を集めてしまったため、真意が伝わりにくい場合があるようなので、本文に違和感をもたれた方はこちらの補足記事を併せてお読みいただくようにお願いします。
生まれ育った関西から東京に移り住んで二年経つが、東京の感覚にどうしても馴染めないところがある。車が通らなくても信号を馬鹿正直に守るとか、エスカレーターで左側に立つとかそういう些細なことはどうでもいいとして、「東京の文化が中心、それ以外の地方文化は周縁」ということを無邪気に信じていることだ。テレビなんかで「六本木」だの「原宿」だのという東京のローカルな地名を断りなしに出すとか、「都内」はすべて都会であると思いこんでいるというのもその一つだが、最大のものはやはり「言葉」だ。
一番不思議なのは、「訛る」という言葉だ。地方出身の誰かが方言の語彙や抑揚をうっかり混ぜると「訛った」と言いたがる。これがよくわからない。自分たちも関東弁をしゃべっているくせに、九州弁や関西弁を「訛った」も何もないだろう。そのくせ「関東弁と標準語は別物だろ」というと全力で「それはない」と否定される。「じゃん」だの「じゃね?」だのが標準語だとでも思ってるのだろうか。
そのくせ、「関西弁は柄が悪い、下品だ」というような差別を平気で口にする。これはその辺のオッサンとかガキとかだけじゃなくて、結構なインテリさんでもそれが差別だということに気づいていない。いったい何なのだろうか。
これがただの言葉の問題で済めばよいが、ネットなどを見ると「また大阪か」「大阪は民度が低い」などという言葉まで出てくるのだから、事態はもう少し深刻な気がする。
誰であれ、慣れ親しんでいない言葉は奇異に感じるものだ。タモリのインチキ外国語という芸が成立するのもそのためだ。しかし、そういう感覚は相対的なものでしかないことは頭に置いておく必要がある。関東人が関西弁に違和感を感じるのなら、関西人も関東弁に強い違和感を感じているのだ。特に、関西弁の語感からすると「じゃん」とか「じゃね?」ほど虫酸が走る言葉はない。もちろん、ここは関東だとわかっているから、それに文句を言うのは筋違いだと思って我慢をしてはいるが、その苦労を知らずに関西弁の悪口を言われるとやりきれない思いがする。東北人や名古屋人が方言を必死で封印している涙ぐましい努力が彼らには想像できないのだろうか。私は普段標準語を使うように努めているが、とっさの時にはどうしても関西弁が飛び出てしまうから、その苦労は想像して余りあるのだが。
確かに関西人も、関東出身者が「じゃん」とか「じゃね?」とかを関西で使うと一斉につっこみを入れるが、それは「標準語」を嫌っているからではなく、「関東弁」を標準語と勘違いして無邪気に使っていることにつっこみを入れているにすぎないのだが。
それにしても、関西弁が柄が悪い、というイメージはどこから来たのだろうか。おそらく、テレビのせいだろう。吉本の芸人はかなり無茶な突っ込みをするし、強引に笑いを取る。だが、吉本の芸人が使っている言葉をそのまましゃべっている関西人はほとんどいない。あれはいわば「吉本弁」なのだ。「吉本弁」は大阪南部の言葉がベースにはなっているが、それと全く同じではない。だいたい、ああいう下町言葉を「下品」だと言うのであれば、我々も「てやんでえ」だの「あったりめえよ」という言葉にはかなり違和感がある、と言わざるを得ないのだが。
そもそも、吉本のステレオタイプで関西すべてを解釈するのはなんとかならないものだろうか(そうでなくても、誤解を恐れずに言えば、吉本の芸人の一番おもしろい部類は全国放送されていないのだ!)。テレビで「関西人」の街頭インタビューとなれば、間違いなく「がめつい大阪のおばちゃん」だけが選んで写されるが、関西人が全員ああだというのはまるで、イギリス人は全員Mr.ビーンやチャップリンであるというようなとんでもない思いこみである。
だいたい、「関西」と「大阪」の区別がついていないことも勘弁してほしいものだ。我々は、自ら「ダサイタマ」ではなく「東京」と呼ばれたがる卑屈な埼玉人ではない。京都・大阪・神戸・奈良という関西の四大文化圏は、関東における東京・横浜・千葉・埼玉よりもよほど個性が強く、言葉一つとっても一緒くたにできる要素など全くない。それとも、東京人は自分たちの身内も「ダサイタマ」などといって馬鹿にしているくらいだから、よそ者などもっと馬鹿にしても当然だとでも思っているのだろうか。
なんだか愚痴がとりとめもなくなってしまったが、こういう人たちに「民度」を云々されるのだけは勘弁してほしいものだ、というのが私の偽らざる感想だ。少なくとも、橋下知事を選んだ府民を馬鹿にするのなら、石原知事を選んだ君たちはいったい何なのか、よく内省してもらいたいものだよ、まったく。
なんつーか、昔から時代とか社会が良くないっていう言葉はあったと思うんだよね。
でもここ10年ぐらいはやっぱり日本の社会は悪くなってるのかなあと、ニュースを見てたりすると思う。
先に言っておくと、自分が生きるという意味だけをいうなら自分は自分に満足している、相対的に言って勝ち組といえるかもしれない。
だから自分の利益を社会に対して要求しようというつもりは全くない。
世の中の人々が不遇を社会や時代のせいにするその風潮が、なおのこと社会や時代を悪くするように思う。
現状がどうだろうと、合理的に目の前の問題を解決することでしか我々は前進しないのだから。
しかし、なんかその合理的に考えてその解を共有するというようなこと自体がなんか通用しなくなってる気がする。
インターネットっていう強力な武器をもってるのに、なぜだろう?
ダガーナイフ禁止!とか明後日の方にいってるのを見るともうね。
ネットには正しいように見える言説があふれているのに、それらがほとんど実行されないのはなぜだろう。
日本の中で権力ある人々ってのは、自分のことしか考えていないんだろうなってメッセージを日々のニュースから読み取れる。
そして、そのなかで非力な人間が力を持つにはそういう人たちにおもねることが重要。
正しいことが間違ったことをただすことを見ることはまれにしか無く
力が力を呼び、歪んで肥大していくことを日々見せつけられる。
戦争が終わって60年以上たち、社会にも膿がたまってきてるんだろうか?
なにか黒幕のようなおぞましい何かがこの社会の見えない頂点に潜んでいて糸を引いているようなそんなイメージをうける
ユダヤ?中国人?韓国人?マスゴミ?官僚?世襲政治家?経団連?カルト?
それぞれが、それなりの求心力をもって日本の庶民を食い物にしてるような気がするが、よく見えない。それすら偽装で本当の黒幕が何かあるような気さえする。その黒い何かが、堀江や村上を犯罪者にして竹中の担当記者を変死に追い込んだのかもしれない。川田亜子さんはそのために死んだのかもしれない。
村上春樹の作品に出てくる羊の力。
では、食い物にされている日本の庶民の求心力って何だろう?徹底的に分断されてるけど、日本の庶民像ってのは確かにある。
無理矢理に言うと江戸っ子と関西人を足して二で割った何か。仕事を愛し、技芸を好み、礼儀正しく、粋に生きる、お人好し。そういう庶民像。
しかし、そういう庶民像の本当の味方、総体としての利益の代弁者というのは存在しないように思える。
左翼は、税金を弱者に使うことしかできない、しかも超非効率。保守は大企業の代弁者だが、大企業はバブルがはじけた後、庶民を2つに分断し片方を犠牲にすることに決めた。
ここに来て、さらに移民を呼ぶという。アメリカが自由の国なら、日本は、サムライの国、どんどん失われつつあるが技芸に優れ、木訥を潔しとする国だ。肌の色さえ違うかもしれない移民は日本語を学び、日本の庶民になってくれるだろうか?そしてそれを期待することにどれだけ意味があるだろうか?
GDPが増えたらハッピーというわけではない、ニコニコや2ちゃんねるに神が現れるまさにそのことが日本のすばらしさなのだとそういう気もしてきた。バブルのように日本の購買力で海外の資産を買いあさってるよりよっぽどハッピーじゃん。そうか?本当にそうか?サムライの技芸は、現代ではオタクとして昇華している、海外ではそれをリスペクトするものさえいる。しかし、オタクは非モテ、少子化への道。サムライの技芸を継ぐ跡継ぎはいない。回路はショートサーキットしている。
村上春樹の作品で言うなら世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。サムライは座して死のうとしてる。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
日本の庶民は黒い何かに気づいている。いまそれは取り除かれなくてはならない。
ネットのコメント欄てろん関西弁の書き込みば見るとなんか嫌な気分になってしょんなか。
こるは特に大阪の人間に多かて思うとばってん、ちゃんとした文章は標準語で書けるくせに、ネット上のやりとりになると「にくじ」方言ば使うて自分が関西人であっこつばアピールする。なして通常の文章で書けるごつ標準語ば使うてコメントすっこつに抵抗があるとどか。そぎゃん地方的党派心ってコミュニケーションの妨げになるこつも多かて思うとばってん、どぎゃんだろか。
書き込みば標準語で統一せーとかは関東人の傲慢だという意見もあるかもしれんばってん、別に北海道の人々でん東北の人々、さらには沖縄の人たちでんネット上のコミュニケーションのなかで、しゃんもっでん方言を使うたりはせんばい。せいぜい冗談めいた表現の中で使うぐらいばい。なして一部の関西人な方言での書き込みに固執すると?自分たちが特別てでん思っとっとじゃなかと?
根拠のない暴論がこれだけ並ぶと壮観ですね。
地方的党派心ってコミュニケーションの妨げになる
別に北海道の人々や東北の人々、さらには沖縄の人たちだってネット上のコミュニケーションのなかで強引に方言を使ったりはしない。
自分たちが特別だとでも思ってる
これは特に大阪の人間に多いと思うんだけど、ちゃんとした文章は標準語で書けるくせに、ネット上のやりとりになると「わざわざ」方言を使って自分が関西人であることをアピールする。
別に北海道の人々や東北の人々、さらには沖縄の人たちだってネット上のコミュニケーションのなかで強引に方言を使ったりはしない。
http://anond.hatelabo.jp/20080302004743
ネットのコメント欄とかで関西弁の書き込みを見ると、何かうらやましい気分になってしょうがない。
これは特に大阪の人間に多いと思うんだけど、ちゃんとした文章は標準語で書けるくせに、ネット上のやりとりになると「わざわざ」方言を使って自分が関西人であることをアピールする。これを非難する人も多いけど、私には、これができる人間が非常にうらやましい。なんで自分にはふるさとの言葉は「NHK弁」しかないんだろう。
父方の祖父母も母方の祖父母も東京在住なので「帰る田舎がない」とこぼす東京人もいるが、私はそれの方言バージョンだ。
こういうのを擁護するのを「地方的党派心」「コミュニケーションの妨げ」と言う人もいるけど、私は必ずしもそうだとは思わない。逆にこういうお国言葉から会話のきっかけが出来て、コミュニケーションが生まれる事だってあるのではないだろうか。
もうこれは、偏見といわれても仕方ないんだけれど、
三十すぎたあたりから、公共の場で、世間を小馬鹿にしたような物言いを関西弁でされると、
無性に腹が立って腹が立って、なにかこうコブシをぐっと握りしめてしまう。
ウラミを含んで首をくくったりしたのではないか。
とても関西転勤なんてできないし、
ネットのコメント欄とかで関西弁の書き込みを見るとなんか嫌な気分になってしょうがない。
これは特に大阪の人間に多いと思うんだけど、ちゃんとした文章は標準語で書けるくせに、ネット上のやりとりになると「わざわざ」方言を使って自分が関西人であることをアピールする。なんで通常の文章で書けるように標準語を使ってコメントすることに抵抗があるんでしょうか。そういう地方的党派心ってコミュニケーションの妨げになることも多いと思うんだけどどうでしょうか。
書き込みを標準語で統一しろってのは関東人の傲慢だという意見もあるかもしれんけど、別に北海道の人々や東北の人々、さらには沖縄の人たちだってネット上のコミュニケーションのなかで強引に方言を使ったりはしない。せいぜい冗談めいた表現の中で使うぐらいでしょ。なんで一部の関西人は方言での書き込みに固執するの?自分たちが特別だとでも思ってるんじゃないの?