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2021-05-20

はいから十数年前,地名仮名書き論が国語審議会において大きく取り上げられた。地名場合も読めない字があっては困る,地名仮名書きにすればだれでも読めるではないかという議論がその根拠であった。

地名仮名書きは結局,多分郵政省方面からの反対によってつぶれたのであろうと推察している。

 しかし,これは単なる地名だけの問題ではなくて,その裏には人の名字仮名書きにしようという明らかな意図があったと思う。名字をいきなり仮名書きにすることは非常に抵抗が多いから,まず差し当たり地名でいこう,地名成功したら,次は名字にいこう,名字にいったら今度は名前もということではなかったかと思う。

そういうことがあったので,私は人の名前制限するということに対して,どうしても承服できない。

https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/13/sokai103/07.html

実は,日本語表記にはそういう不思議なことがある。これは本来漢字が持っている宿命であるが,結局概念を表して,読み方は各自好きなようにしなさいということが実は漢字本来の姿であったのだということを,橋本萬太郎という漢字学者が,このごろ声を大にして言っている。

まり字形登録されて,その登録漢字で行われていれば,それはどう読んだって構わない。この字がこの人をアイデンティファイするものだというふうにしている。名前とはそういうものだという哲学戸籍をそうさせている

昔は,すべての人が名前を持っている必要はなかった。民衆は生きていることで十分で名前なんか必要はなかった。上流は名前ちゃんと持っていた。その場合には名前が立派な字で書かれるということが必要から,音の形ということではなくて,字の形でその人を決める,それをどう読むかは自由だ,というところに楽しみもあった

https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/13/sokai106/03.html

名前というものについて,国が干渉するということは,少し強い言葉を使うならば,文化に対する弾圧だとさえ私は思っている。

https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/13/sokai104/03.html

 
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