はてなキーワード: 岩井俊二とは
Ifは、「世にも奇妙な物語」の流れで、たまに見たり見なかったりする程度だったんだが、この回は見てなかった。どうやらとても評判が高い内容らしいということだけを聞いていて、しかし、気になる一方で、あまりこの話について調べようとすると、オチがわかってしまうので、積極的には触れないようにしてたら、17年。岩井俊二の公式サイトで公開されたと知ったので見てみた。
中身は、俺が想像していたのとは全然違ってた。以下、俺が想像してた話。
全然、予想と違うじゃねーか。なんだこの甘酸っぱいの。北川昌弘が、べた褒めしていた時点で、どういう中身か気づくべきだった。
それに、14歳の奥菜恵に12歳の小学生役は無理がありすぎるだろ。せめて、13歳で中1くらいにしておこうぜ。学校でも私服なのもあって、子供とお姉さんって感じでなんかなぁ。あと、花火はどこからみても、丸く見えることを"既に知ってしまっていた"のが、残念だった原因かもしれない。
松本人志監督作品の映画「しんぼる」を見た。以下「しんぼる」及び「バベル」の相違点について言及しているため、両作品のネタバレ含むので注意。
松本人志はテレビで見せるフリートークと、コントで演じる役とのギャップが激しい芸人である。フリートークで自我を全面に押し出して、コントでの演技は別人格かのような憑依型。この二つを偏らず両立させて、しかも成功している。
映画「しんぼる」においてもまた、見た目奇抜だが、無口で平凡な思慮の浅い男(それでいてどこか狂気をはらんでいるような)男を自分に憑依させて演じようとしている。
では、何故見た目を奇抜にする必要があったのか、果たしてこの主人公があのような服や髪型のチョイスをするような人間だろうか?
見ているとそのような矛盾や違和感が何度も起こる、矛盾や違和感だけを繋げて映画にしたといっても良いぐらい出てくる。しだいに全てに何か理由があるんじゃないかと思うようになり、どうしてもそれを考えてしまう。最終的に「くだらない」が「面白い」って事ね、という所に一応行き着くが、やっぱり「で、それが何なの?」という疑問の答えにはなっていない。
この映画が、観客の解釈や理解をうながす為に作られているのは間違い無い。「もっと理由や意味を考えてみて!」と言われているような、そうやって考えるのが面白いという事だろうか。その結果裏切られてしまうカタルシスを楽しめ、そういう作品なのかもしれない。
解釈や理解しようとする事自体を楽しめ、というテーマだとして、ではその映画に正しい理解や解釈の正解は存在するのか? 存在しているはずだ。その方が面白いから。
という訳で、正解を探す事にする。
僕が考えた正解なんじゃないかと思う答えを検索してみると、バラバラの要素としては既出なのだが、統一されたものが無いのでここにその解説を書いてみよう。
「しんぼる」は、日本人の海外に対するコンプレックスを表現した作品だ! と強く断言してみる。
「しんぼる」は、2006年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「バベル」という映画を非常に意識した作品である。
バベルのネタバレになるが、バベルはメキシコ出身の監督と脚本家による映画で、ナショナリズム的な視点から観ると、思慮の浅い日本人のせいで、モラルの無いモロッコ人の子供が銃を使い殺され、それに巻き込まれた白人は自分達の事しか考えない。それにひきかえ他民族の子供を低賃金で助けるメキシコ人は陽気で善人だ、という解釈が出来る。松本人志はナショナリズムが強い思想の持ち主なので、バベルを観てメキシコ人ふざけんなよと、日本を馬鹿にすんなと怒ったはずだ。
だからしんぼるでは、同じ文脈で皮肉たっぷりに、思慮の浅いヘンな日本人のせいで、メキシコで不条理な出来事が起こり子供が不幸になる、バベルと同じくその因果関係に理由は無い。また物語の舞台となる国の数も同じ。バベルのアメリカモロッコで起こる出来事と違い、しんぼるでのロシア中国で起こる出来事は不幸ではなく、ただくだらない出来事なのだが、これはバベルの偶然性による不幸に対する皮肉なのだろう。バベルの偶然性による不幸が、メキシコ人監督の恣意的なナショナリズムにすぎない事への批判である。
さらに、映画の撮影の仕方も同じで、カットバックを使った演出もさる事ながら、しんぼるにおいてメキシコの場面での映像は、ドキュメンタリーのような手ぶれのあるハンディカメラの映像なのだが、これはバベルが終始そのように手ぶれのある映像だからである。
次いで、上記のバベルに対する皮肉を、さらに拡大して日本の文化による世界に対する皮肉、あるいはバベルを絶賛したカンヌ(フランス)のアートシーンに対する皮肉として、現代アートの文脈でアイテムが構成されている。
まず主人公の髪型や衣装は、フランス芸術文化勲章を持つ海外でも評価の高い草間彌生の格好で間違いない。脱出劇としては広すぎるあの白い部屋もインスタレーションそのもの。飛び出てくる意図的に日本の物に偏ったアイテム、それを使っての笑いは日本の文化の文脈のようでいて海外向けの笑いでもあり、これは海外でウケる日本の現代アートのコンセプトそのものである。
バベルやカンヌに反発を覚えながらも、欧米文化の中で迎合して同じ舞台に立たないかぎり世界的に受け入れられないというジレンマを抱え、それに対して下ネタとパロディという形で皮肉をこめ、彼らの持つ日本人のイメージを利用して、滑稽な道化のふりをして笑いを取り、しっかり世界にウケる現代アートの文脈にそって作品を作っている。
そして映画のクライマックス、最後の最後に、神のような姿になった主人公の背後の壁に立体的な世界地図が現れる。多くの日本人は何の疑問も持たないと思うが、外国人にとっては違和感のあるシーンである、その世界地図は日本が中心となっている。
このように「しんぼる」という映画は、日本と日本以外の世界を意識した作品である。世界に向けて表現しながら、媚びずに日本的であろうとした訳だ、しんぼるというタイトルも、英語のひらがな表記であるのはそういう理由だろう。
要約すると、松本人志による海外アートシーンを皮肉った「日本最高!」を世界に向けて表現した映画。
おそらくアートの文脈を松本人志が知っていたとは思えないので、その文脈を組み込んだのは脚本を共同作成している放送作家の高須氏によるものなんじゃないかと思われる。
憶測だが、バベルの脚本家か監督は菊地凛子演じる聾唖の女子高生のイメージを、例の毎日新聞waiwai事件の、元ネタの記事を見て得たんじゃないだろうか。元ネタ(http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/435.html) 女子高生、ノーパン、チラ見せ、男を誘惑、家で裸、という点が同じである。最もリアルに創り込むべき役なのに、日本にそんな女の子居る訳がないというような人物を設定した矛盾。海外受けするメジャーなアニメや映画でその様なイメージの女子高生キャラが居てそれの影響を受けたとは思えないんだが、しいて挙げるなら岩井俊二作品の女子高生の不安定さと元ネタの記事を合わせた感じだろうか。
可能性1・元増田の周りのオタも「ミリタリや鉄道やプロレスとかと横断したオタトークがしたいけど、元増田は漫画アニメゲームしか話せねえよ」とか思ってる
可能性2・元増田の周りのオタも映画とか好きだが、宗派が違う(元増田は岩井俊二が好きだが周りの人間は鈴木則文が好きとか例えばそういうの)のであえて黙っている
上は半分冗談ですが、まあ交遊範囲を広げてみりゃいいんじゃないですかねたぶん。
映画なら特撮系の人が親和性が高い。服なら絵描き系(特に若めの人)が詳しい人多い。そういう生息域みたいなのはありますよ
(あくまでも傾向なんで、そうじゃない人もいますもちろん。あと車・バイクだけは傾向があんま思いつかん。藤島康介みたいなのがいるの考えても、いないわけじゃないけど)。
http://anond.hatelabo.jp/20070924133628
後に映画監督の岩井俊二が、やはり学校で一人でいることが多くて、先生に
「もっと友人を作るようにしなさい」と言われたところ、「どうして友達を作らなくてはいけないのですか?」と答えたのを聞いて、頭を金槌で殴られたようなショックを受けたのを覚えています。
自分ひとりでも十分に生活に満足していれば友達というのは必要性がないのです。
そうか、そう答えればよかったのか…。
この人に対するレスです↓
http://anond.hatelabo.jp/20070924130119
今にして思い返せば、お友達ができるかどうかも「縁」の問題で、
クラスがあんまり仲良くしたくないタイプの人々で構成されている場合は
なかなか「お友達」ってできないと思うのです。
後に映画監督の岩井俊二が、やはり学校で一人でいることが多くて、先生に
「もっと友人を作るようにしなさい」と言われたところ、「どうして友達を作らなくてはいけないのですか?」と答えたのを聞いて、頭を金槌で殴られたようなショックを受けたのを覚えています。
自分ひとりでも十分に生活に満足していれば友達というのは必要性がないのです。
でも、今の社会では「友人がいない」ということがそれだけで何かものすごい悪のようにいわれている部分もあります。
美輪明宏さんの本からの受け売りなのですが、「本当の友達なんて、一生に一人出会うことができればそれで十分に幸福」という言葉があります。
一緒にお酒を飲むために友達は必要なのか。
何か悩み事を相談するために友達は必要なのか。
万が一のことがあった場合に、借金を申し込むために友達は必要なのか。
ただ近所に住んでいる人、学校のクラスが一緒の人間、職場の同僚を便宜上「友達」と読んでいるのか。
「友人がいない」ことは一つの悩みですが、多くの人と付き合いがあれば、それだけ悩みも増えることになる。
友人ができるかどうか。というものは「ご縁」に任せてしまってもよいのではないかと思います。
とはいえ、友人や一応付き合っていることになっている人(←と書いたら本人はまたトラウマになるのかもしれないけれども、一度もリアルではデートをしたことが無かったりするのです。)にメールを送っても返信が無いので少し寂しくなってしまいました。
こういうときには、やはり友人は多い方がよいのかな。という気もしてきます。
オフ会にでも参加してみようかな。。。