「本質」を見抜くというのは端的に言えば「圧縮する」ということだ。
状況に対して中心となる部分を捉え、それのみを言及することで話をまとめる。
つまるところ、「解像度を大幅に下げつつも情報が大きく損なわれない表現を探す」ことが「本質を見抜く」ということなのである。
それを会見の場でやると「果たして今回の内容は「成功」「失敗」どっち?アリ?ナシ?蟻?梨?つまり、それを一般的に失敗と言います」になるのである。
「何々については成功。何々については失敗。なので、これこれについてはかくかく、うまうまについてはしかじかなのです」という情報の長さに耐えられない人間が「本質を見抜いた」と言い張り「つまり、失敗が一箇所でもあるんだからもう失敗でいいでしょ」と結論付けてしまうのである。
君たちの大好きな「100文字以内に納めるために、話の要点だけを抽出したような態度で注釈を全部取っ払おうとする」行為もまた、君たちが散々馬鹿にしてる共同通信記者と同じ行為だと言う話をしているんだぞ?
ところで「本質を見抜く」という行為がやたら好きな人達がいる。
多くの場合それは二種類
①長い話を理解できない
そう、はてなーはこの2つに該当する。
おめでとう。
「100文字で言い切れなそうだと感じたなら、ちゃんとブログや増田に書け。無理やり圧縮して「本質」だけを話そうとするな」
今回の件でよくわかったろ。
圧縮して「本質」だけを話そうとすると如何に見苦しくなるかが。
いわゆる言語的相対論じみた話になるが、100文字でコメントしようとばかり考えていると「100文字で纏められるように内容を圧縮して読もうとする癖」がつくぞ。
そうなると最後には「つまり失敗だったという結論でいいかな?そうしないとコメント欄の文字数オーバーするから。だからもうう細かい話は省いて失敗だったで纏めていいよな?」って言い出すようになるんだぞ。
これ以上無い他山の石だぞ。
ちゃんと持ち帰れ。