そう思うのは本当の貧困を知らない人だ。
貧困の定義ってのは「生存活動が脅かされる状態を回避するのが困難になっている状態」じゃないのか?
現代の若者は車を持っておらず、ちょっと早い自転車で誤魔化し誤魔化し暮らしているようだが、それで彼らが困っていないならそれは貧困ではない。
だがもしもその状況で「社会人なのに自転車とかありえない。会社が便利に君の私有車を使えないなら君をクビにするよ」でクビになったらそれは貧困と言える。
結局のところ、貧困を生み出しているのは「他人がコストを密かに払っているから成立していることに甘えるのを当たり前だと考える旧世代の人間」なんじゃないのか?
化粧にお金をかけなくてもそれが当たり前なら貧困ではないが、「ホホホホ、そんな安い化粧品使ってる馬鹿は会社の顔に泥を塗るからクビザマスよ」とか抜かすお局にイジメられそれを経営者が「その通り。お局ちゃんは社長の愛人だから逆らうなよ」と庇って結局貧しいのを工夫してきた側がクビになったらそれは貧困だ。
貧困の本質とは、貧しさに適応するものを社会から追放する側にある。
風呂なしアパートに住んでいたとしてもそれが即貧困とはならない。
風呂入ってない臭いやつはハブにしようぜと周囲の人間が逆スメハラを繰り返して初めて貧困になるのだ。
繰り返しになるが、貧困の本質とは貧しいなりの工夫を凝らしてなお生活の困窮から抜け出せないこと、そして多くの場合それは周囲の人間の無理解によって生み出される。