コミュ障はあるひとの属性ではなくて、単に知能指数に差が大きすぎて思考の互換性が喪失されているだけの現象の可能性もある、と気がついた。
知能指数が高いものが低いものを理解できるというのが一般的な観念ではあるが、しかし、それが日常的な生活の時間スパンの中で意思疎通の失調が発生するのであれば、結局、高いか低いかは関係なく、多数派から少数派が「コミュ障」とみなされるのに十分であろうと思われる。
この「日常的な生活スパン」ということは例えば『ケーキを切れない非行少年たち』で、おそらく知能指数が100前後の多数者からみて70前後の「非行少年たち」の考えている「3つに切る」がその内的な論理をたちどころには一切理解できない、時間をかければわかるにしても、というセンセーショナルな報告を思い起こせば、理解できるのではないかと思う。
たとえば知能指数が高いといわれているひとにオードリー・タンがいる。
彼女も基本的にはほかのひとがどう考えているのかを理解することは可能だろうが、ほんとうにわかっている、言い換えれば自発的にそうしたわかりが浮かんでくるわけではないと思う。
たんにIQが100前後のひとがどう考える傾向があり、その思考がどういう成り立ちをしているのか、またそのIQが少数ではあれ一定の割合で130ぐらいだったり70ぐらいだったりするとどうなっているかということも、「知って」いるだろうとは思う。
しかしそのわかりの感覚が自発的には浮かんでは来ず、やや面倒ながらエミュレートしてみてようやく感覚が結ばれるような、そういう状況なのではないかと、勝手に想像している。
IQ70の集団においてIQ130の人はコミュ障だろうし、IQ140の集団においてIQ100の人はコミュ障だろうね 同じ目線で同じことを語り合うことはできない 結局多数派か少数派かが全て