私は内容によって「できます。」または「できません、理由は××です。」と答える。
できるかどうかを尋ねられたのだから、答えは「できる」「できない」(条件次第ってところもあるかな)のいずれかしかない。
「○○できますか?」という字面でありながら、実際には「○○してくれ」「○○せよ」という一方的な指示命令の意図だったようだ。
前後の文脈を含めても、この字面だけからはそのような一方的な指示命令の意図とは読み取れなかった。
単に私の理解力が乏しいだけか。
"想像力"の欠如ともいえるかもしれないが、想像は所詮私が主観的に内面的に好き勝手都合よくするだけのこと。
少し前に流行った"忖度"なんてのも、する側がする側の主観に基づいて内面的に勝手な解釈で行うもので、それが真に相手の望むものであるかどうかは相手にしか判断できない性質のものである。
話がそれたが、いずれにしても自らの意思や意図が固まっているのであれば、「○○してくれ」「○○せよ」と述べたほうが明解であり、前述のような無用の齟齬を生むことがないことは明らかである。
それにもかかわらず、あえてこのような体裁を取りたがるのには、やはり私ごときでは到底及びもつかないような深い深い理由があるのだろうか。