その含有量とか対象の大きさとか受け取り方のひとつとして、書いている人の表現方法が読み手にどう伝わるかという事なんだとおもうけど
情報の発信者は一人で受け取り手も一人 話題が宇宙の規模になろうが公演だろうが1の発信者と1の受け取りの相互関係にはかわらない
その1に対しての表現で「すべての男性は」と男性に向かって話をすると「あなたも勿論含んでいてその範疇からはずれることはない」という言い含めがはいってるはず
いわゆるその察するとなると相手が「すべて」と自分に云ってきていることについて自分も指していてその内容に同意するか反論するかの立場しかないことを言い示している
「ほとんどの男は」といえば聞き手によっては自分はちがうとか自分もそうかもとか、自分はそうみられているのかという相手側の主張や思考も組み入れる余地がある
主語でかすぎっていうのはどのみち1対1の対話になる構図においてあなたもそうだと決めつけが拡大した定義について狭義になり限定的になっていくにつれ読み手を縛ることになる
それを読める所においておいて、あなたに向かって書いてはいないといわれてもその目につく場所とわかっていて書き放つことはもうその対象に見せる気があるということだろう
直接相手に限定的な内容を言い伝えてやろうと思っている意思があるといえる
えっちな本をゾーニングするかしないかと同じことで すべての男が犯罪者であると男性刑務所で声高らかに唱えてもそれは真であり正であろうけども犯罪者を収容していないところで言うべき事や大きさではないはず