誰もが名前を知っているはずのグループなのに、片隅と形容せざるを得ないのも侘しいことだけど。
それは置いておいて。
文章を読んでいたりいなかったり、擁護と励ましの声だけをかける人がいた。
本人と長いやり取りをしようとして、叶わなくて、一連のまとめを作った人がいた。
わたしも看過できない部分に、思わずエゴサにかかるような書き方をしてしまった。
「あの人はこういう人だから」といつも通り目をつぶりきれなかった人もたくさん見た。
全員、「ファン」と呼ばれたり、「ファン」を自称したりする人のはずなのに、反応はさまざま。
盲目に信じること、貶しを愛と呼ぶこと、「こういう人だから」と諦観しながら付き合うこと。
付き合い方は多様なのに、みんな「ファン」と括られる。
全肯定するのも、斜に構えるのも、都合のいい距離を保つのも、ぜんぶ「ファン」なのか。
騒動の本人は、さまざまいるファンの中でどんな人だけを「ファン」として見ているんだろう。
アーティストという記号の奥に生身の人間がいるように、ファンという記号の奥にも生身の人間がいる。
どういう風に在るのがお互いにとっていちばん心地いいのか、たまに分からなくなってしまう。
こういうことを考えてしまうから、都合のいいファンにわたしは決してなれないんだろうけど。
騒動の人1人だけで成り立っているわけではないから、人数分の価値観とこれからも付き合っていくんだろうけど。
盲目的に信じることがいいとも、愛を免罪符に貶すことがいいとも思わない。
好きな人たちについて諦観を持ちたくないから、「こういう人だから」なんて距離の置き方もあまりしたくない。
プチ炎上自体はやはり醒めた目で見てしまっているけど、うっかり飛躍に飛躍を重ねてしまって、
どういう感情の形が、距離感が、自分の中で最もしっくりくるのか、分からなくなってしまった。
どんな感情であればわたしは躊躇わずファンと名乗れるんだろう。
ゲシュタルト崩壊の末、途方に暮れている。