落ちこぼれにとっては貧すれば鈍する、そして、天才はますます落ちこぼれに対する傲慢さを強めていく、そのような傾向はお金持ちと貧乏人の関係に限ったことではない。と同時にだが、天才にとってどんな手を使ってでも落ちこぼれいじめに走るほど、いじめる対象の規模が小さくもなってきている。いじめっ子もいじめる対象がなくなってしまうと自らも維持できなくなるのが本当のところ。それゆえ、生産性のないシステムだとか、リスクの高いものに手を出してでも、天才は更なる高みに走ろうと奔走してしまう。天才の断末魔が、不純な食物連鎖システムに手を染めてでも目的を達しようとさせる動機につながるのである。当然、そんな不純な食物連鎖システムには善良な社会がなかなか協力しないに決まっているし、これらのシステムが十分に機能しないのは容易に想定できる。今日震災につけこんだデマを流している馬鹿どもにもいえるだろう。
落ちこぼれをいじめられるだけいじめ、いじめの対象が限界に達すれば不純なシステムを作ってでもますますいじめようとする。そんなシステムが、今のこの世の社会に蔓延していると考えるのが自然である。現にサブカルは長期的に考えてみれば生産性のない、不景気文化特有の明らかなその場しのぎの文化で、この限界は、急激なサブカル人口の激減という形で表れている。そして、一方で、いじめ社会の経緯ゆえに現状維持目的ならば何でもやるという断末魔の事態がますます進行中である。こんな体質の根深い社会ごと、善良な人民が巻き込まれてはたまったものではないだろう。