長年収集し続けたものを自分で納得して自分で捨てたにも関わらず、コントロール不能の落ち込み状態に陥ったことから収集物というのは拡張された身体であり外部化された自己でもあったんだな、と実感しました。
自分で納得してさえそうなので、ある日突然それを奪われて棄てられるというのは、不意打ちで腕をもがれてその腕を捨てられたのと同義みたいなものではないでしょうか。
必然的に「あなたの身体が傷ついても構わない」「あなたは邪魔で不要」「あなたには大切にされる価値が無い」というメッセージを受け取る事になるんだと理解しています。
一方で、断捨離(あるいは普通に掃除お片付け)によって片付いた余裕のある空間はたいへん気持ちがいいです。
そして、片付けをすると不思議とその片付けた空間を「‘自分が’自由に動ける‘自分の’領域」だと感じてしまうことがあるようなのです。
その空間に自分の想定外の荷物が不用意に置かれていると、なんだか自分の領域を侵されたような、自分が自由に動けるはずだった身体空間を奪われたような気持ちになる。
どうやら、自分が手をかけて獲得した「自由に動ける空間」というその空間自体が自分の拡張された身体になっている。
断捨離にハマる人は、実は「空間」を収集することにハマっているのではないかというのが私の仮説です。
なので、断捨離で「空間」を収集している人からすると自分が集めた空間として定められていたはずの場所に不用意にものが置いてあるのは体の自由を一部奪われているのと同義みたいなもので、それを「片づけて」と言っても置きっぱなしにされていると「あなたの身体は侵しても構わない」「あなたの自由を尊重するつもりはない」「あなたには大切にされる価値が無い」というメッセージを受け取る事になるのではないでしょうか。
実は似た者同士どちらも傷ついているのです。
捨てる快感というのはあるんだろうけど、それを楽しみたいだけなら自分のものを捨てればいい 結局あるモノについて、それを大切なものと思うかゴミと思うかは価値観の相違なんだか...