努力できる人は凄い。結果を出しているならば、尚のこと凄い。私はそういった人達を尊敬するし、羨ましく思う。
ただ「努力をしよう」「頑張ろう」という意思が芽吹くこと自体がとんでもなく幸運なことだと思うので、「お前は努力ができない」という言葉に蔑みの意味を込めて他人を殴るのはあまり行儀の良い行為ではないと思う。
(本当の意味で努力をしている人でそういうことをする人は極めて少ないと私は信じているけれど…)
育った環境やその人の生まれ持っての特性など、自分ではコントロールできない様々な要素が複雑に影響し合うことによって「努力できない人」は生まれてしまう。「不慮の事故」と呼んでも過言はないのではないかと、個人的には思っている。
ただ「不慮の事故」を起こした人間がその事故の責任の全てから逃れることができないのと同じように、「努力できない」ことの免罪符として上記の考え方を持ち出すのは、私は間違っていると思っている。「努力できない」ことが他者の不利益に直結するような場合には、その不利益を生み出した責任を当事者が負うことは、状況にもよるが、不当なことではない。あくまでも最初に書いたような蔑みの言葉に対する防波堤として使うことが妥当だろう。
「努力できるように努力する」のは独りでは難しい。努力できる人間に育つはずのないような人間が家族や友人、恩師に恵まれたお陰で人並み以上の努力家になるケースも、気づかれないだけで世の中には多く存在しているはずだ。努力できない人間が努力できるようになるためには強い言葉で叱咤された方が効果的な場合もあれば、優しく寄り添ってもらえるだけで良い場合もある。その人に合った手の差し伸べ方は誰にも分からない。それでも自分を想って手を差し伸べてくれる人が側にいるというのは、一つの幸運なのではないだろうか。
検索したらこれがトップに出てきたわ。前にそんなにバズったのかと見てみたら、めちゃくちゃスルーされてた。