そして、価値の基準は地域や時代によって異なることも知られている。
すると、今の自分が不細工であっても、同じ遺伝子を受け継ぐ子孫は美人遺伝子に変わっているということも考えられないだろうか?
あるいは、このような説明がある。不細工というのは、不利な形質をもつ個体を見分けるための指標として発現すると。
すなわち美しい個体は健康な遺伝子をもつことが多く、醜い個体は不健康な遺伝子をもつことが多いのだと。
より健康な個体に惹かれるために、われわれは美しさを基準にする感性を生得的に備えているのだと。
一理あるように思われる。
しかし、生物には遺伝的多様性と説明される現象があるのではなかっただろうか。
すなわち、われわれ生物は雌雄個体のどちらもから遺伝子を引き継ぐので、遺伝的に近い個体同士の遺伝子を引き継ぐよりも、離れた個体同士の遺伝子を引き継いだ方が、多様な遺伝子個体が生まれ、種全体が環境の変化に左右されにくく生存しやすくなる、というものだ。
この意味では、ある特定の地域・時代で通じる「美人」の遺伝子のみが残るコロニーと、それと比べて「不細工」の遺伝子も残っているコロニーでは、後者の方が生存確率が高いということになる。
すると「不細工」の遺伝子を残さないという選択はむしろ回避されるべき事態になるのではないだろうか?
このように、不細工だから後世のために遺伝子を残さないという発想は、実際には正しくないのではないだろうか。
一方で、この美醜社会の情況を考えると、「不細工」であることに劣等を抱くのは至極普通のことであり、そうした感覚を持つこと自体は正しいというのは言えるだろう。