「善行為をすると幸せになり悪行為をすると不幸になる」ということは
日本では広く知られている。
しかし、意外と知られていないのが「最高の善行為」とは何かだ。
そもそも善行為とは具体的にどんなことを指すのかもあまり知られていないようだ。
善行為はなんとなく「他人を喜ばせる行為」というようなイメージで語られている。
最初期の上座部仏教(といっても現代まで伝わっている文献はブッダ死後のものだけだが)では
それらの文献の定義によれば、悪行為とは、貧・瞋・痴の心に基づいた行為である。
「貧」は貪欲、つまり欲望を表わし、「瞋」は怒りや憎しみを表わし、「痴」は真理に対する無知を表わす。
これらはさらに嫉妬や物惜しみなどに細分化されて解説されることもあるが、基本的にはこの3つが悪の根源である。
例えば、純度の高い覚醒剤をジャンキーに売ってあげれば相手は大喜びするかもしれないが、
これは貧・瞋・痴に基づく行為であると考えられるので、相手が喜んでいようと善行為とはならず、悪行為となる。
逆に、自分にとって生活の礎であり無くては生きていけない「お金」を
必要な人に施すのであれば、これは不貧・不瞋・不痴の心に基づいた行為であると考えられるので、これは善行為である。
すると、ボランティアや施しがなぜ善行為たりえるのかがわかるかもしれない。
では、「最高の善行為」とはなんであろうか。
だから、最高の善行為とは、「100%不貧・不瞋・不痴の心に基づいて行われる行為」のことである。
しかし、心は複雑なもので、相手に奉仕するとしても100%善の気持ちになって奉仕することはほとんどない。
「偽善」という言葉があるが、見返りを求めて相手に奉仕することがほとんどである。
「やらない善よりやる偽善」と言われたりもするが、それ自体は悪いことではないし、ごく普通のことである。
では、最高の善行為とはなにか。
ヴィパッサナー瞑想では、瞑想中は100%不貧・不瞋・不痴の心になる。